CATEGORY:山王祭・日吉大社
2010年04月18日
甲冑展~もののふたちの美~
昨日、旧竹林院で開催されていた”甲冑展”に行ってきました。
展示場の様子も撮影したかったのですが、文化財保護のため撮影厳禁でした。
この展示会は、織田信長によって比叡山全山・坂本一帯が焼き討ちされた後、
日吉社の再建に尽力・奔走した祝部行丸の御子孫の方が主催されておられます。
甲冑は当然ながら、日吉社や山王祭に関する古文書・絵図が多数展示されていました。
今年は、”山門荒法師と警護衆”をテーマに、甲冑が十領(だったと思う)が展示され、
私が必死に書き写したのが、「日吉山王祭礼・未之御供調進覚書」と「北嶺諸堂塔之圖」の二つ。
「日吉山王祭礼・未之御供調進覚書」は、
現在も山王祭の4月13日に京都・室町仏光寺の日吉神社より献納される未の御供のことで、
その御供の内容を、絵図もまじえて詳細に書き留められていました。
ここで、京都室町仏光寺の日吉神社がでてくる繋がりですが、
時代は堀河天皇の御代(1087~1107)・平安末期の頃、
比叡山坂本の日吉社の僧兵たちは、山王神輿を担ぎ出して朝廷へ強訴に及んだのです。
担ぎ出した山王神輿は、そのまま室町仏光寺・山王町辺りの森に置き捨てられ、
僧兵たちは帰ってしまいました。
その後、ここに山王社の祠が建てられ、現在まで祀り続けられているのです。
いわゆる、捨山王の一つと伝えられています。
この捨山王は、京都市内にはよく見られ、
祇園社の境内・北東隅に祀られている日吉社もそうですし、
麩屋町通上白山町の白山神社、下白山町の白山宮なども捨山王の一つと呼べるでしょう。
大分脱線してしまいましたが、もう一つの「北嶺諸堂塔之圖」は、
三巻からなっていて、延暦寺・日吉大社境内の諸社殿を写実的に描いたものでした。
毎年、この時期に開催されているとのことで、テーマを変えながら展示が行われます。
世間(学術的にも)に知られていない古文書や絵図資料が、多く見られるのが面白いです。
もう、今から来年が楽しみになってしまいました。
展示場の様子も撮影したかったのですが、文化財保護のため撮影厳禁でした。
この展示会は、織田信長によって比叡山全山・坂本一帯が焼き討ちされた後、
日吉社の再建に尽力・奔走した祝部行丸の御子孫の方が主催されておられます。
甲冑は当然ながら、日吉社や山王祭に関する古文書・絵図が多数展示されていました。
今年は、”山門荒法師と警護衆”をテーマに、甲冑が十領(だったと思う)が展示され、
私が必死に書き写したのが、「日吉山王祭礼・未之御供調進覚書」と「北嶺諸堂塔之圖」の二つ。
「日吉山王祭礼・未之御供調進覚書」は、
現在も山王祭の4月13日に京都・室町仏光寺の日吉神社より献納される未の御供のことで、
その御供の内容を、絵図もまじえて詳細に書き留められていました。
ここで、京都室町仏光寺の日吉神社がでてくる繋がりですが、
時代は堀河天皇の御代(1087~1107)・平安末期の頃、
比叡山坂本の日吉社の僧兵たちは、山王神輿を担ぎ出して朝廷へ強訴に及んだのです。
担ぎ出した山王神輿は、そのまま室町仏光寺・山王町辺りの森に置き捨てられ、
僧兵たちは帰ってしまいました。
その後、ここに山王社の祠が建てられ、現在まで祀り続けられているのです。
いわゆる、捨山王の一つと伝えられています。
この捨山王は、京都市内にはよく見られ、
祇園社の境内・北東隅に祀られている日吉社もそうですし、
麩屋町通上白山町の白山神社、下白山町の白山宮なども捨山王の一つと呼べるでしょう。
大分脱線してしまいましたが、もう一つの「北嶺諸堂塔之圖」は、
三巻からなっていて、延暦寺・日吉大社境内の諸社殿を写実的に描いたものでした。
毎年、この時期に開催されているとのことで、テーマを変えながら展示が行われます。
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もう、今から来年が楽しみになってしまいました。
日吉大社・山王祭2012/松明造り・鈴縄巻き・神輿上げ
『日吉山王祭』 山口幸次氏が2011年・写真展開催!
日吉大社・山王祭2011 大松明(鼻松明)造り
日吉大社・山王祭2011 桟敷組 3月20日
日吉大社・山王祭2011 桟敷組 肩組
日吉大社・山王祭2011 神輿上げ(お輿上げ)・3月6日
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