京つう

  日記/くらし/一般  |  滋賀県

新規登録ログインヘルプ



CATEGORY:森下仁丹看板

2007年07月02日

仁丹町名表示板 烏丸二丁目の謎?

『2006年12月02日・町名表示板 烏丸通花屋町下ル』の仁丹看板で、

shimo-chanさんから、色々な面白い推論をいただき、

それを元に、自分であれこれ考えてみたのですが、

ますます深みにはまり、はまりついでに「烏丸二丁目」の謎をちょっとだけ突付いてみました。


下記のマップは某有名web mapのものですが、

赤線が「烏丸二丁目」の正確な町境界線になるようです。


見ていただいたら、東本願寺青少幼年センター準備室の部分だけ張り出しています。

しかし、張り出してるようで、実は烏丸二丁目の東境界線は、

このラインが本来の境界だったのではないでしょうか。


北に隣接した、北町と仏具屋町の境界線が、その張り出しラインと一致しています。

本来の烏丸二丁目の東境界ラインは、

その張り出しラインをそのまま南に下ろしてきた直線であったのではないかと推理できるのです。

普通、京都市内の町域をみる場合、そう考えた方が自然ですよね。


明治期に区画整理された、新しい烏丸通のカーブに沿って町境界ラインが敷かれていることが、

逆にとっても不自然に映ります。

これは明らかに、町域が変わったことを示していると思います。


『烏丸通花屋町下ル』の仁丹看板が、設置当時から現在の場所にあったかどうかは、

また疑問の部分をはらんでいますが、

仁丹看板が設置された時代には、烏丸通は既に湾曲したルートになっていましたから、

大きく異なる位置に貼られたとは考えにくいです。


それに、東境界ラインが、張り出し部分ラインの延長線でそのまま南下していれば、

看板の場所は「烏丸二丁目」になってくるのです。

まだまだ、調べる必要がありそうです。




■その他の疑問が、次々わいてきました。
  
・普通、「烏丸二丁目」があれば、「烏丸一丁目」があるものです。
 一丁目・二丁目と数える場合、京都市内の場合、ほぼ確実に北から並んでいるのですが、
 ここの場合、一丁目はあったのか?無かったのか?
 もし無かったなら、なぜ二丁目なのか?

・張り出し部分がなぜ出来たのか?
 以前、この張り出し部分には、特定郵便局がありました。
 その郵便局がなくなって、現在の~~準備室になっています。
 と言うことは、明治45年の烏丸通拡張以降、この張り出し部分だけ町家が残っていて、
 住んでいる方が居られた?つまり、無人町ではなかったのではないか?

京都市町名辞典などでもう一度調べる必要があります。
ますます、謎が増えてしまいました。。。



同じカテゴリー(森下仁丹看板)の記事画像
平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」を発見
船はし屋さんで、仁丹町名表示板!
京都まち歩きマップ
復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!
京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」
「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動
同じカテゴリー(森下仁丹看板)の記事
 平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」を発見 (2011-03-14 22:19)
 船はし屋さんで、仁丹町名表示板! (2011-02-16 22:34)
 京都まち歩きマップ (2011-02-11 12:00)
 復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置! (2011-02-10 22:08)
 京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」 (2011-01-18 22:56)
 「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動 (2010-12-21 22:13)

Posted by ずんずん  at 22:22 │Comments(6)森下仁丹看板

COMMENT
私も「烏丸二丁目」の町界を調べたのですが、地図によっては四辺がすべて記載されておらず、どうもいまひとつうやむやにされているような印象を受けました。家屋がないからということも手伝っているのでしょう。

"本来の烏丸二丁目の東境界ラインは、その張り出しラインをそのまま南に下ろしてきた直線であったのではないかと推理できるのです。普通、京都市内の町域をみる場合、そう考えた方が自然ですよね。"

なるほど、ごもっともです。
それにしても、町名や境界の変遷を記録した資料って、ありそうでなかなかありませんね。

実は、気になるものですから、今日の昼休み、職場の近くの図書館へ行き「京都市町名辞典」を見てきました。そしたら、ますます泥沼に引きずり込むような記述が、、、
あれよこれよと調べていたら時間がきてしまったのでコピーできなかったのですが、明日、もう一度行ってみて、報告させていただきます。
Posted by shimo-chan at 2007年07月02日 23:19
shimo-chanさん
楽しみに報告お待ちします。
Posted by ずんずん at 2007年07月03日 09:10
烏丸二丁目、調べてきました。しかし、、、

昭和54年に平凡社より発行された「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」によりますと、宝暦12年(1762年)刊の「京町鑑」では、「烏丸通」に面する町名が北から順に記されているそうで、今回、関連する部分では“五条烏丸町・悪王子町・上大坂町・中大坂町・下大坂町・北町壱町目・二町目・桜町”とあるそうです。

現在の公称町名と比較しますと、五条烏丸町、悪王子町はそのまま現存しますし、上、中、下の区別はありませんが一応、大坂町もあります。そして、北町、烏丸二丁目と続きますが、これらは北町壱町目、二町目に対応しているのではないでしょうか。

ずんずんさんおっしゃるように、“普通、「烏丸二丁目」があれば、「烏丸一丁目」があるものです”のとおり、壱町目はやはり存在していたということになるのではないでしょうか。

最後の桜町は現在では存在しませんが、ただ烏丸七条に桜木町はあります。関連があるのかどうかは不明ですが。

ということで、例の仁丹看板は、この二丁目のことなのか?と思いますが、一方で、寛永14年(1637年)の洛中絵図では、現在の「高槻町」は「因幡堂二丁目」と記され、さらに元禄末期洛中絵図には「高槻丁」と記載されているそうです。となると、例の仁丹看板は因幡堂二丁目の二丁目?と思ったりもしてしまいます。

と、そんなわけで、何の解決にもなりませんでした。

今回思ったのですが、町名も町境も長い歴史から見たら、生き物のように変化をし続けているのですね。

かなり古い時代のことは歴史書などにまとめられているのですが、私たちが今知りたいのは京都市が施行されてからの割と近年のことです。でも、これが案外分かりにくいのが実態ではないでしょうか。
実は、京都市の情報公開コーナーへも行ったのですが、埒があきませんでした。歯がゆいばかりです。

と言うことで、ケイゾクとさせていただきます。
Posted by shimo-chan at 2007年07月05日 21:05
先日この看板みてきました。お二人の分析、実に興味深いですね。町名と境界のことまで考えた事はありませんでした。

shimo-chan様と同じ資料を恐らく見ていると思うのですが、本願寺寺内町の項目に、文政年間の東本願寺の寺内町がずらーっと書いてあるところに、
北町一丁目(現北町)、北町二丁目(現烏丸二丁目)…

という記述があるので、二丁目町は旧北町二丁目を指すものだと思います。

ご参考までに、北町に関する記述は以下の通りです。
北町(下京区烏丸通六条下ル)
南北に通る烏丸通を挟む両側町。
寛永十四年(1637)洛中絵図では「烏丸一丁目」、寛文後期洛中洛外之絵図では「門跡寺内」、寛文末洛中洛外大図には「堂前壱丁目」とみえ、元禄末期洛中絵図及び宝永二年(1705)洛中洛外絵図で「北丁」となる。また天明六年(1786)京都洛中洛外絵図では「北丁」の名はなく、「北丁二丁目」とともに「北丁一丁目」に統合されたものと考えられる。
(中略)
東本願寺の創建された慶長七年(1602)以後慶応年間ま(1865-68)に至るまで寺侍の居宅があったが、明治二十五年には東本願寺
の火除地となり、同四十四年、町内西方部が東本願寺の築地内に入れられた。

この最後のくだりが関係していそうな気もします。
ただshimo-chan 様の仰るとおり、その後の
流れがいまいち分かりません。ささやかながら、何か分かった事ありましたらまた書き込ませていただきます。
Posted by idecchi_2006 at 2007年07月09日 18:29
idecchi_2006さん、こんにちは。

”北町一丁目(現北町)、北町二丁目(現烏丸二丁目)…という記述があるので、二丁目町は旧北町二丁目を指すものだと思います”とのこと。私はこの記述を読みもらしていたようです。ご教示ありがとうございます。

また、”寺侍の居宅があったが、明治二十五年には東本願寺の火除地となり、同四十四年、町内西方部が東本願寺の築地内に入れられた”というのは、市電開通にともなう整理かもしれませんね。やはり、ポイントはこのあたりでしょう。一度、明治30年代のこの辺りの詳細な地図を探してみなくてはなりません。東本願寺の資料にも、もしかしたら記録されているかもしれませんが。機会を見つけて府立資料館にでも行ってみます。

明治22年の地図の復刻版は持っているのですが、これでは烏丸通はまっすぐに南下し京都駅へと至っています。でも、町名や町界は全く記されていませんので、解決はできないのです。

仁丹看板の基本的なルール(通り名+小文字の公称町名)からすると、設置されたときの公称町名は「二丁目町」ということになりますので、烏丸二丁目の前は単に二丁目町であった可能性もありますね。

引き続き要調査です。
Posted by shimo-chan at 2007年07月11日 06:55
shimo-chanさん、idecchi_2006さん、
熱い二丁目トーク、謎に謎が重なり、
ますます盛り上がってきましたね。

shimo-chanさんの言われるとおり、
明治30年代のころの市街地・町区画のわかる資料があれば、
現況の謎解きになるでしょうね。
私も捜してみます。

とにかく、この辺りの町並み形成には、
東本願寺が大きくかかわっていることは間違いないようですね。

東本願寺の寺域拡大と、古屋敷や新屋敷と呼ばれていた寺内町の形成などが、
時代々々で、町名がころころ変わっているのも、その辺りに関係しているようです。

「京都大学電子図書館」で閲覧が出来る古地図に、
京都大学附属図書館所蔵 『都記』というのがあります。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/maps/map019/image/index.html

この地図は、民間で作成された京洛図では、
現存するもので最古と言われていて、
成立年代は寛永1-寛永3(1624-1626)です。
つまり、 1602年徳川家康が本願寺第12代・教如上人に、
東六条の地に寺地四町四方を寄進され、
東本願寺の原型ができて、
さほど経っていない時期の地図ということなのです。

それには、佛具屋町などの名はみえますが、
この"二丁目"部分には町名の記述は無く、
まだ町並みとして機能していなかったのかもしれません。


それから、「明治44年」という年ですが、
これは、明治45年の市電開通というよりも、
江戸期の四度の火災で焼失していた、
御影堂・阿弥陀堂、御影堂門(大門)が、現在の姿に再建され完成した年です。
(御影堂・阿弥陀堂は、先年の明治28年に完成していました)

明治25年に火除地が作られたのも、
28年に完成することになる堂宇が、
二度と焼失しないための方策なんでしょう。

やっぱり、下記の4地図があれば、相当のことはわかるでしょうか。
・二堂の再建が起工された明治13年以前の地図
・二堂が完成の明治28年以後の地図
・堂宇が全て完成した明治44年前後の地図
・市電開通後、明治45年以降の地図

地図好きの私には、たまらない世界ですぅ。。。
Posted by ずんずん at 2007年07月13日 11:24
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。