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CATEGORY:森下仁丹看板

2010年10月21日

仁丹町名表示板 古写真にみる編~清水二町目~

『写真集 京の町並み』~田中泰彦編・京を語る会~より。

大正14年2月18日に撮影された、清水産寧坂の様子である。

よ~く見ると、左端に琺瑯製の仁丹看板が写っている。

この一枚の写真は、今まで琺瑯仁丹が、昭和3年の御大典を控えた京都の町に、

急ピッチで設置が進められたとする説を、根底から覆す資料となる。

看板の表記は、「清水二町目」と読み取れるが、

残念ながら、それに続く詳細表記までは判読できない。

想像するに、「下京區 清水二町目 産寧坂通松原上ル」か?

では、琺瑯仁丹が設置されだすのは、大正期のいつ頃だったのだろうか。

ネット上に、「琺瑯の歴史について」という、面白いサイトを見つけた。

それによると、琺瑯鉄器の生産額が伸びだすのは大正7年頃からで、

大正14年に、大正期における一つのピークを迎えている。

また、琺瑯技術の草創期に、大阪市北区や福島区で琺瑯生産工場が事業を始めていることに、

森下仁丹が、琺瑯看板の設置を大々的に進めたこととの関連性を感じさせる。


歪み修正を試みましたが・・・

「清水二町目 ** ***上ル」と、五文字ほどが書かれていそうです。
二文字目と三文字目の文字間が、微妙に空いています。
”上ル”は、ほぼ間違いないようです。







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Posted by ずんずん  at 12:29 │Comments(9)森下仁丹看板

COMMENT
ご無沙汰しております。
これは大変興味深い発見です。
古写真からいろいろ出てくると面白いですね。

ネガがあれば、もう少し鮮明になるかも。

仁丹であることは分かります。

琺瑯生産の問題との関連も示唆的。
Posted by 愚華 at 2010年10月21日 15:31
愚華さん、こちらこそたいへんご無沙汰しております。
わざわざのコメントありがとうございます。

最近、古写真を眺めることが多く、これも偶然のお土産です。
私たち、仁丹看板常連の方の中に、琺瑯の仁丹看板設置の時期について、
銀粒仁丹の発売拡販説を言ってられる方がおられます。
この写真資料が出てきたことで、その説が有力になってきたのです。
元々、仁丹は赤粒であったのですが、森下仁丹は大正期に銀粒仁丹を開発し、市場に送り出しましたが、その新商品の拡販を考えて、琺瑯仁丹看板の設置を進めたのではないか、というものです。
非常におもしろい説です。

まだまだわからないことだらけですが、少しずつ謎が解けていきます。
遠回りしながらの探索行ですが、ちょこちょこ進んで行きますので、宜しくお願いします。
Posted by ずんずん at 2010年10月21日 18:35
これはスゴイ発見! ずんずんさん、あっぱれです。
私は御大典説者でしたが、これで取り下げなくてはならなくなりました。

近ごろ、京都の古い写真を集めた写真集が何冊か出版されていますが、仁丹看板の起源については大正期の写真、それも撮影年のはっきりした写真がポイントになってきましたね。でも、先の写真集は昭和のものばかりです。カメラの普及のことを考えれば無理のないところですが。

この看板、どうやら「下京区 清水二町目(通り名)」の表記パターンのように見えますね。であれば、通り名はいかに?

産寧坂清水坂上ル、産寧坂五条坂上ル、清水坂五条坂上ル

う~ん、どれもしっくりいきません。それに坂を下るのに上ル?

それと、商標の位置の問題です。
ご存知のとおり、上と下のタイプがあります。木製のは商標が上にあったので、琺瑯製も上のタイプの方が古いのではという説を唱えてきたのですが、この説もこれまたこの写真で崩壊することになりました。

じゃ、上のタイプは旧上京区管内にしか現存していないので、上京区は上で、下京区は下ではという説がこの写真で少しクローズアップされそうですが、でも、旧上京区管内にも下のタイプがあるので、やはり成り立たないのですよねぇ。


調べるほどに少しずつ謎が解けてきたような気がしていた今日この頃だったのですが、この1枚の発見で逆戻り。謎がますます深まりました。
でも、一方で、ますます面白くなってきました。意欲が湧いてきました。
Posted by shimo-chan at 2010年10月21日 20:32
今までの定説を覆す世紀の大発見!!
ずんずんさんの仁丹にかける執念を感じます。
この発見で仁丹町名表示板のルーツの輪が
またひとつ絞り込まれましたね。
Posted by ゆりかもめ at 2010年10月21日 21:25
大発見ということで決まりですね。

一度、どこまでいろいろ分かっているか、
謎は何か、
をまとめていただけると嬉しいです。

四条にあった(明治末期から大正期)大きな仁丹看板も
私的には興味があります。
Posted by 愚華愚華 at 2010年10月22日 12:50
いや~、スゴイ発見ですね!

大正14年ですか! 今までの御大典説が見事に覆されましたね。こうなると、まさに1からのスタートになりますね。嬉しいやら悲しいやら…(笑)
これからは、大正時代の写真が要チェックですね。
でも、実際はなかなか大正時代の写真はないですよね。

これからの、資料探しがまた大変ですが、色んな角度から攻めてみないとダメですね。
Posted by デナ桜 at 2010年10月22日 12:52
みなさま、ご返事遅くなり申し訳ありません。

>shimo-chanさん
私も御大典説を振り回しておりました。
なんとも、事実は小説よりも奇なりです。
大正期で、それも撮影年月日がはっきりわかるものは非常に珍しいです。
さすが京を語る会、田中緑紅さんであります。

>ゆりかもめさん
まだまだ謎の方が多い仁丹看板ですが、
少しずつ少しずつ、仁丹看板の履歴書に覆いかぶさった霞を、
取り除いていきましょう。

>愚華さん
何が謎なのか、全貌が見えないところに、仁丹看板の深さがあります。
森下仁丹さんの方でも、色々手を尽くして調べておられるようですが、
ほとんど当時のことを知る資料がないとのことです。
ところで、「四条にあった(明治末期から大正期)大きな仁丹看板」とは、
どのようなものですか?

>デナ桜さん
古写真は、貴重な資料ですよ。
写真絵葉書が多数出回りだすのも、大正期に入ってからのようです。
大正10年頃から14年までで、仁丹の写った場所を、
定点で捉えた写真があったりすると最高なのですが、
そんなのないですよね。
大正10年代。この時期が非常に注目の時期です。
Posted by ずんずん at 2010年10月26日 20:47
2010/11/4木曜日 上洛して仁丹看板をチェックして回っていました
上京區衣棚通上御靈前下ル 繼孝院町に行くと何やら作業中でした。「解体ですか?」と聞きましたら「はい」と  京都の人間ではないので遠慮してしまい仁丹看板はどうするのか聞きませんでした。
35/01/58.0  135/45/35.0 ±5m日本測地系です。
追跡調査よろしくお願いします
Posted by FLYMAN at 2010年11月06日 00:40
FLYMANさん、ご無沙汰してます。
重要な情報ありがとうございました。
いただいたコメントにより、私たちのメンバーが仕事帰りに立ち寄り、
取り合えず廃棄は免れました。
あらためて、日の目を見させてやれる様に、考えていきたいと思います。
念のためですが、
これからはログインしてから”ずんずん”のHNでコメントするように致します。
ログイン後ですと、”ずんずん”の後に足型が付いて現れます。間違いなく、ずんずん本人のコメントであることがわかり、ずんずんを騙った場合にはすぐわかるようにしたいと思います。

追伸 FLYMANさん、ということは今日は愛知から来られていたということですね。
ひょっとして、今晩一泊して明日も京都ということだったりして。
面白い情報がありましたら、また教えて下さい。
よろしくお願いいたします。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年11月06日 19:42
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