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CATEGORY:森下仁丹看板

2010年11月08日

仁丹町名表示板 古写真にみる編~祇園町北側~

やはり、『写真集 京の町並み』~田中泰彦編・京を語る会~より。

今月、京都五花街の一つ、祇園東が公演中の”祇園をどり”の会場となっている祇園会館が

建設される前の様子である。撮影は昭和5・6年。正確な撮影年月日の記録を確認し忘れてしまった。

ここ祇園石段下地域の道路拡張・市電敷設が完成したのが、大正元年12月25日。

この時の市電延伸は、四条通は四条小橋(四条高瀬川)から石段下まで、

東大路通は東山三条から東山渋谷通(馬町)までの間である。

 これは余談だが、東山三条から馬町の間で東大路線の延伸を一旦留めたのは、
東山三条では、京阪京津線(当時は京津電気軌道)との平面交差が発生するためで、
市電開業が明治45年6月11日・京津線開業が大正元(明治45)年8月15日・市電東山線延伸が大正元(明治45)年
12月25日。 渋谷通(馬町)の方は、馬町交差点より南は妙法院の境内であって、まだ門が建っていた。
 この明治45年というのは、明治天皇の崩御があり、かつ市内交通網の開通が相次ぐという、大変な1年だったのだ。
因みに、明治天皇は明治45年7月30日午前0時43分に崩御、大正天皇践祚により即日大正に改元されて大正元年
7月30日となった。

森永チョコレートの看板の家とその後の家の敷地が、現在の祇園会館になっている。

ちょうど、東大路通・東末吉通の西南角に仁丹看板が2枚設置されている。

はっきりと「祇園町北側」と読取れるが、行政区は”下京區”のはずだが、やや画数の多い文字の様にも見える。

撮影時点では東山区が成立しており、現在もよく見られる、上書き修正で”東山區”と書き換えられているかもしれない。

 ここで、また余談になるが、新行政区の成立による、一つおもしろい推測が浮かんだ。
 明治当初の京都市は、上京區・下京區の2区から出発しているが、昭和になってから周辺郡部を吸収しながら市域を次第に拡大し分区していった。その構成は、上京區・下京區に加えて、昭和4~6年には中京區・東山區・左京區・右京區・伏見市(區)の7区にまで膨らんだ。具体的にその変革を挙げると、上京區から分離して左京區が、下京區から分離して東山區が、そして上京區と下京區から分離して中京區が成立していった。そして新たに郡部を取り込んで、右京區と伏見市(區)が生まれた。
 その行政区の変動の中で、京都市民のこだわり気質が見え隠れしていると考えられるのだ。
 それは、一部の仁丹看板に、上京區・下京區と書かれた部分への上書き修正の行為が確認できるというものだ。上書きされた時代は正確に判断できないながらも、分区されてから然程遠くない時期に上書きされたものと考えておかしくないだろう。
 つまり、新行政区となった中京區や東山區の仁丹看板においては書き換え行動が見られるのに対し、左京區・伏見區にはその行為がほとんど見られないということなのだ。これは冒頭にも書いたように、推定までには及ばない、あくまでも推測の域なのだが、中世より使われてきた”洛中”を意味する上京・下京という表現よりも、「中京」や「東山」という表現にステイタスを感じ、そちらを好んだ気風が一部にあったことを意味していると思われるのだ。さらに推測を重ねるならば、”中京”と上書きすることについては、新しい京都の中央を意味する表現を良しとした表れと考えられる。また、”東山”と上書きすることについては、山荘や別荘を多く抱え、古より多くの粋人たちに愛された風光明媚な地名を冠した区名を好んだとも考えられるのである。しかし、左京區は洛中を意味する上京區にステイタスを感じ、あえて書き換えることはしなかったのではないだろうか。
 では、伏見市から京都市伏見區へ変わった伏見はどうだろうか。こちらの場合は、元から伏見は京都からは独立した町を構成していた。近年でも、伏見の年配の方が、京都市中心部に行くことを京都へ行く、と言われるのを聞くことがある。伏見は城下町でもあり港町でもあって、京都と密接に関係しながらも独自の文化・歴史をもっている地域なのだ。1929年(昭和4年)5月1日の伏見市誕生は、京都市への合併が前提になっていた様だが、1931年(昭和6年)4月1日の合併で伏見區となった後も、伏見の独自性に誇りを持っているからこそ、仁丹看板の伏見市の表記に、伏見區と上書きした例は見られないと思われるのだ。
 尚、今回のことで知ったのだが、Wikipediaによると、昭和6年の合併で宇治郡に属していた山科町や醍醐村までが京都市へ編入される際、同郡宇治村(のちの東宇治町)にも京都市への編入が打診されていたが、実現には至らなかった。それに対して、同郡笠取村は京都市への合併を希望していたにもかかわらず実現しなかった。当時からも、合併に対しては賛成反対が両立し、様々な利害や思惑が入り乱れていたようである。


もう一枚の仁丹看板は、こちらのもう一枚の写真ではっきりと確認できる。

東末吉通を西に望む角度で撮影されている。

googleのストリートビューで見ると、建物や周辺の雰囲気はまったく別の町になっているが、

東末吉通の道筋が、途中から若干左に折れている感じは、今昔その面影を残している。


看板を拡大してみると、祇園町北側に詳細表示が付加されたタイプの様である。


さらに拡大してみると相当粗くなって見にくいが、入る文字数とスペースと僅かに見える文字影から、

表記されているのは「祇園町北側 東大路通四條上ル」か。

右3分の1の画像は、現在も残っている別の場所の”祇園町北側”の看板である。

先にも書いたが、下京區であるはずの筆跡に対して、中央画像の文字の影は明らかに黒く、

”東山區”とも読めてしまうほどに画数の多い文字が書かれているように見える。

次に、左3分の1の画像は、5文字の町名表記の下に、東大路通ではじまる詳細表記タイプの看板である。


「さよなら京都市電」 編集発行/京都市交通局(昭和53年)より。

京都市電の各路線の営業開始日を一覧にしたものである。

・赤色部分が、市電開業時の明治45年6月11日営業開始した路線。
・朱色が、大正1~2年の開業。
・黄色が、大正期の開業。
・黄緑色が、昭和期戦前開業。
・緑色部分が、昭和戦後の開業路線である。
・紫色は、大正12年~昭和2年の間に、狭軌から広軌へ変更された路線。

京都市電は、明治45年に開業後、約1年半で旧市街地域を囲むように路線を延ばし、
中世から江戸期にかけて成立していった細い町並みの小路を、主要道路に拡張していった。
赤色・朱色部分で旧市街地区を囲む様に営業路線を伸ばした。
黄色の部分は、市電開業以前から路線網を伸ばしていた京電(狭軌)路線をそのまま運用しながら、
大正年間に広軌への新路線敷設を完了させていった。
以前に、京電の遺構に関する記事を上げたが、正にその路線の痕跡である。










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Posted by ずんずん  at 06:00 │Comments(4)森下仁丹看板

COMMENT
ずんずんさん、お元気ですか。

今回のは大論文ですね。

大変参考になりました。
Posted by 愚華 at 2010年11月08日 11:29
愚華さん、コメントいつもありがとうございます。
思いが膨らんでくるままに書き連ねてしまいました。

話は変わりますが、また京都写真集が出ますね。
あの今昔以来、2番目3番目のどじょうを狙っての出版でしょうか。
また、図書館での閲覧になりそうです。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年11月08日 18:52
ずんずんさま こんばんは
なにげなく祗園の町名看板を見ていましたが、奥深いですね やはり歴史がありますね 今度から見る目が変わります。
先日の繼孝院町の件では皆様のネットワークに感心しました。さすがですね
ところで昨日11/19 修学院離宮に申込んでいましたので 仁丹町名看板の北端を目指して松ヶ崎・上高野口等回りました。
上高野口小森町は捜すのに苦労しました。と同時に感心しました。
よく見つけられたものと・・・・・
看板自体は少し上に移動していましたが健在でした。
しかし、松ヶ崎御所ノ内町(オブジェのような)がありませんでした。
少し周りも捜してみましたが・・・盗難でしょうか?
それともどこかに移動したのでしょうか?
ご存知でしたらまたご指導ください。
Posted by FLYMAN at 2010年11月20日 00:42
FLYMANさん、いいタイミングの修学院離宮だったでしょうね。
最高の紅葉を観賞することができたんではないですか。
さて、仁丹表示板情報ありがとうございます。
本日、メンバーが仕事帰りに立ち寄るとの連絡が入りました。
確認してくるとのことです。
あの看板の場所は、建造物に設置されていない、非常に不安定な状態で、
セキュリティ的にも無防備でったですね。
せめて、最近の傾向である埋蔵仁丹化であることを期待するばかりです。
何か分かりましたら、またお知らせいたします。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年11月20日 15:15
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