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CATEGORY:森下仁丹看板

2011年01月18日

京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」

メンバー全員が揃っての京都仁丹樂會・探索ミーティングが開催されました。

といっても、当てもなく探すのではなく、

去年、メンバーの”でな桜さん”がひょんな切欠でお知り合いになった、

とある酒屋さんを訪ねるミーティングであります。


その酒屋さんは、幕末から製茶業を営んでおられましたが、

明治後期から酒類販売の商いを始められ、この東福寺の地で、長くお商売をなさってこられました。

そのお店に、木製の仁丹町名表示板が一枚保存されていたのです。

朱色の縁取りの木が、一部残っています。


お店のご主人に、その経緯についてお話を伺うことが出来ました。

その顛末たるや、驚きの連続でした。

まさに奇跡の出会いであったかと思います。

ご主人の歴史好き、探求好き、何故何故好奇心がなければ、日の目を見なかったでしょう。

その詳しくは、「小さな酒屋の日記」~思わぬ発見~ をご参照下さい。

地域に密着した、独自の目線で探求されておられる面白いBlogです。

歴史に詳しい方でも、驚く事実がいっぱいです。

並んで立っている琺瑯看板の発見経緯も、ご主人のBlogに書かれています。

面白いでっせ。



お店の前に出して、撮影させていただきました。


裏側も念のために撮影っと。

これは、杉材が使われているのでしょうか。それとも、松なのでしょうか。

檜は高級なので使わないでしょうし。

木材に詳しい方なら、すぐにわかるのでしょう。



木製仁丹町名表示板の表記フォーマットには、様々なタイプが存在していて、

表記のスタイルが定まっていないことを伺わせるのです。

それは、仁丹町名表示板が、まだまだ試行錯誤の時代であったことを感じさせます。

この表示板の表記は非常にシンプルで力強く、琺瑯仁丹へとつながるデザインを彷彿とさせます。




木製表示板の左下端に、このような文字が書かれていました。

”五十に丸”と見えます。

何かを識別するための文字であることは、間違いないでしょう。

他に現存する木製仁丹町名表示板を、間近かに観る機会があれば、チェックする項目ができました。

木製仁丹町名表示板の歴史や素性を辿る鍵になるやも知れません。



仁丹町名表示板のお話のほかに、こんな看板なども見せていただきました。

「男は黙って サッポロビール」 by 三船敏郎

このCMが流れるまでは、一部のファンだけに知られていたビールだったのですが、

これで、一気にメジャー路線に躍り出た”サッポロビール”だったのです。

この会話の中で、三船敏郎を知らない世代もいるというお話が出て、

今の若い連中は、三船美佳のお父さん、と思っているみたい?

確かにそうだけど、もっと大きいよ、世界の三船だ!

やっぱり、七人の侍の菊千代は鮮烈なイメージが残っているなぁ。

椿三郎、隠し砦の三悪人、蜘蛛巣城、悪い奴ほどよく眠る、数え上げたら切がない。

とにかく、ただのお父さんと違うのだ。すごい人なんだ! 



なつかしのビール瓶のオンパレード。




ツバメソースも色々揃ってます。

チビソース瓶でも買えるから、お試しに買ってしまいたくなる、可愛い小瓶たちです。

お土産にいい感じですね。


こんなディスプレイもありました。

とても雰囲気があって、一つ欲しいなぁ、と思いきや、非売品でした。



因みに、この琺瑯仁丹町名表示板は、お店の表の二階に付いているのですが、

そこで疑問が湧いてきませんか。

そうですよね。先に出た木製仁丹町名表示板が”十七丁目”だったのが、

琺瑯では何故か”十六町目”になっている。

これも、こちらのご主人に教えていただくまでは知らなかった歴史上の事実があったのです。

昨年、開業100周年を迎えた京阪電鉄ですが、

この本町通りの西側を沿うように開通したのが、明治43年(1910)4月15日。

その時、この一帯の町域の改編が行われたのだそうです。

この酒屋さんの住所は、明治43年の開通までは本町十七丁目であったのが、

町域再編で十六町目になったということなのです。

このことを、少し調べてみたのですが、なかなか出てこない歴史的事実なのです。

森下仁丹の歴史によると、

全国的に仁丹町名表示板が設置され始めたのが、明治43年となっています。

この京阪の開通が明治43年4月15日。

この木製仁丹町名表示板の住所が、京阪開通以前の旧町域の表記になっているということは、

遅くても、明治43年4月15日以前の設置ということになってくるのです。

しかし、開通日に町域改変の発効日とするものだろうか。

もっと早い段階、つまり、京阪線の建設段階で町域の改変がなされ、

その時点で、新しい町域の発効がなされる方が自然な様にも考えるのだが、どうだろうか。


では、明治43年4月15日に開通を迎えることができた京阪建設工事は、どれくらい期間がかかったのだろうか。

ウィキペディアでは、全路線の青写真が出来上がったのが、明治41年(1908)9月。

ようやく、明治41年(1908)10月より4工区に分割されて建設工事が開始された、となっている。

その建設計画は、大阪市の横槍、淀川沿いの軟弱地盤、用地買収の遅れ、

京都での琵琶湖疏水堤防上への変更など、10数ケ所にわたるルート変更を余儀なくされたらしいのです。

この本町通り沿線では、東福寺の敷地を含んでいたため、用地買収が順調に進まなかったということを、

上野酒店のご主人にも教えていただいた。

その用地買収の結果、町域の改編が発生したことになるので、

木製仁丹町名表示板の設置時期が、明治41年から42年中ということも視野に入ってくることになるのです。


とにかく、この町域の改編時期を調べなくては・・・

木製仁丹町名表示板の設置時期の定説を覆すことになるかもしれません。

うむむ、奥が深いです・・・・






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Posted by ずんずん  at 22:56 │Comments(27)森下仁丹看板

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 先日の仁丹版町名板の表記スタイルで、町名が前に来て、後ろに小書きで通り名のグリッド表記がくるものについて少し触れた。話を持ちだした最初の時点では深く考えてはいなかったの...
京都の範囲【京都クルーズ・ブログ】at 2011年01月25日 19:37

COMMENT
ずんずんさん。先日はお疲れ様でした。

確かに、あの辺りの町名改編時期がわかれば、看板の設置時期がわかってきますね。これは、唯一木製看板の設置時期がわかる例ではないでしょうか。
他の木製看板は証明できる物がなかなかありません。看板を調べる内に色々な事を調べる事になりそうですね。
どうやら、広く浅くいろんな知識をもとめられそうですね。
これからは、調べ事が山ほど出そうですね。

それで、わかれば一歩前進ですね。
Posted by デナ桜 at 2011年01月19日 13:12
デナ桜さん
この出会いは大きかったですね。
忙しい紅葉のシーズンにもかかわらず、
ご主人が店内からわざわざ出てきて、デナ桜さんに声を掛けられたというのは、
余程に、デナ桜さんの全身から、仁丹オーラが立ち昇っていましたかな。
町名改編の時期を、是非とも確認したいですね。

以前の写真のお陰で、
琺瑯仁丹町名表示板の設置時期の定説も覆って、大正期まで遡りましたし、
今度は木製仁丹町名表示板の設置時期が、
明治43年よりも早い時期の可能性が出てきましたから、
なかなか面白いことになってきましたね。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年01月19日 20:35
町名改編時期の解明、私にお任せください。
いい方法を思いつきましたので。

ただし、今度平日に休みの取れた時でないと調べられないのですが。
Posted by shimo-chan at 2011年01月19日 20:54
shimo-chanさん
町名改編時期の解明、是非お願いします。
解明の後、種明かしもよろしく。なんか凄そうな技を使う様な予感。たのしみにしてます。
Posted by ずんずん at 2011年01月19日 23:19
素晴らしいミーティングの記事
ありがとうございます

仁丹の町名看板の果たす歴史の役割に
改めて感服している次第です

しかし、反面「内輪的」な内容もあり
仁丹の町名看板に興味を持ったものが
こういう動きに参入出来るか?
と、思った時に、わたしですら躊躇してしまいます

長年、仁丹の町名看板についてみなさんで研鑽を
されて今日に至っておられると思いますが
それを前面に押し出されてしまうと
後に仁丹の町名看板に興味を持たれた方たちが
こういうミーティングに参加されるのか?
と、思うとおそらく皆無だと思うのです

もう少し、オープンにされる部分も必要かと思います

この記事、面白く拝見させていただきました
どうして「本町十六丁目」と「本町十七丁目」という
町名看板の違いが出来たのか?

平日に、お休みがあれば解決しますとの書き込みが
ありましたが、即座に解決する内容でもあります
その手段を知っておるのですが・・・
なにか秘密結社のような活動をされているような
外観を呈しているような会のようですので
意地悪ではないですが、解決方法をお教えしたくないと
正直に思ってしまいました

これは、わたしの人間の狭さに起因するものですが
仁丹の町名看板を今後も公に活動として残していくという
姿勢であれば「内輪の会」的な要素は、徐々に排除を
されていくべきだと思います

「本町十七丁目」の町名変更に関してのことについては
今後は、わたしは即座の解決手段を知っていても
お教えすることはないと思います
それは、そちらの会が「内輪での会」であるからです

そのうち、夏が来て、わたしが神戸に引っ越すのですから
おおよそ関係のないことだと思います
研究熱心なのは、よく伝わりますが、周囲の第三者が
入れない雰囲気を醸成している状況では
協力も得にくい環境かもしれませんね

もっとも、わたしが協力しなくとも、いろんな方が
協力されて解決に向かうと思ってますが・・・
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2011年01月21日 00:10
いままで、いろんなことを好き勝手に書かせて
いただいたことに感謝いたします

この書き込みを最後に、この町名看板に関わることからは
さよならしたいと思います
今後も、研鑽を積まれて、京都の文化発展に
寄与していただけることを祈っております

ありがとうございました
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2011年01月23日 01:13
感動しております。

手に持てるというのもいいですね。
Posted by 愚華 at 2011年01月24日 12:39
京神たかちゃん本舗さん

ご返事コメント遅くなってしまい、すみませんでした。
ほんとうに貴重な意見をありがとうございます。

そうですね、仁丹町名表示板に興味を持った方に、
マニアックすぎて付いて行けないわぁ・・・と思われてしまうのは、ちょっと悲しいですね。
それから、内輪的なイメージで映ってしまったというのも、反省しなければならないですね。

ただ、私はいつも、興味を持ったことは、ずんずん深く掘り下げていきたくなってしまうんです。
私たちよりも早くにその道を歩んだ先人も、後から興味をもって歩き出した人も、
みんな同じだと思うんですね。
私はその境目など気にせずに、どんどん人に会っていきたいと思っています。
普段はそんなに大胆な人間ではありませんが、
探求したいと思っていることになると、気が付くと、いつもこういうことになっています。
そうすると、自分では考えもつかなかった、新しいものが見えてきたりします。

京神たかちゃん本舗さん、
>この町名看板に関わることからはさよなら・・・、
とのコメントをいただいてしまいましたが、私はお待ちしています。
今は、そうお考えになられたことに、私は何も申せませんが、
これからも私は、仁丹町名表示板を見つめて行きたいと思っています。
もしその中で、アドバイスいただける機会がありましたら、ぜひ宜しくお願い致します。

本当にありがとうございます。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年01月24日 13:08
愚華さん
毎度のコメントありがとうございます。
本当に感動の出会いでありました。
この上野酒店さん、お店の魅力もさることながら、
ご主人が、またまた、この木製仁丹町名表示板を引き寄せたと頷けるお人柄でありまして、
一度お店を覗かれて見てはいかがでしょうか。
愚華さんは、お酒を召し上がるか知らないのですが、
おいしい日本酒に、ワインも隠れたベストセラーであります。
私たちがお伺いしている間にも、女性の方々が買い求めに来られていました。

もうじき、東福寺の塔頭・同聚院さんで、
毎年2月2日らしいのですが、屋守護の符が参拝者に配布され、
この神符を表の戸に貼っておけば、災厄除け・子孫繁栄に恵まれるとのことですので、
行ったついでに覗かれてみるものいいんではありませんか。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年01月24日 13:29
左下の数字について他の木製看板を見てみましたら
慈眼庵町の看板の左下に、数字らしき文字が!!

こちらは丸ではなくひし形の中に 〇八(〇は何が書いてあるかわかりません)という文字が!!

これはいったい何の番号でしょう?
Posted by ゆりかもめ at 2011年01月29日 22:19
ゆりかもめさん、さすがですね。
チェックされたんですね。
今さっき、私もチェックしてみました。
すると、福田寺町も菱形でしたね。
そうしてみると、この本町十七丁目がいかに状態がいいか、わかりますね。
100年近い年月を、屋外で過ごしてきたのか、土壁の中で過ごしてきたのか、
この差は大きいということですね。

それでこの文字ですが、”何かを識別する文字”と記事中では書いた通り、
最初は、設置者側(森下仁丹)に必要性があって、何かを識別する為に書いたと考えていたんです。
例えば、製作した看板を、設置エリアにごとに搬送する為の文字であるとか、製作を請け負った看板業者の認識記号とか。
でも、それなら表に書く必要はないんじゃないかと、思うようになったんです。

それで、これは設置するに当たって、当時の行政府である京都府に届け出て、設置を認められた認可記号かと。
だから、見える表面の隅に小さく書かれているのではないかと考えたのです。
しかし、丸型と菱型の2種がある理由はわかりません。
最初は、下京と上京で違うのかと思いましたが、福田寺町が菱型なので、この説はダメですね。
明治後期、他の看板の状態の良いものの事例を多く確認する必要がありますね。
それから、この時代の京都府の行政文書を紐解くか。
大阪の仁丹町名表示板の設置許可の記号って、どんなんでしたっけ。
時代も、地区も違うので参考になるかは?ですが、
記号のパターンなどは参考になるかもしれません。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年01月30日 01:16
慈眼庵町と福田寺町にも記号ありですか。
今時分になって気付くとは迂闊でしたね。私も気付きませんでした。
本町十七丁目のが鮮やかに残っているからこそ、そこまで辿り着けたわけですよね。

それにしても、貴重な発見です。これが何かの手がかりになったらいいのですが。

慈眼庵町の「〇八」はもしかして元学区の数字かと思いましたが、西陣学区は第七学区でしたから、それでもなさそうです。
やはり、今のところ、ずんずんさんのおっしゃる認可番号という説が有力でしょうか。

ただ、表示板の設置が明治40年代として、すでに京都市制が本格的に始まってからのことですから、認可するのは京都府ではなくて京都市ではないのでしょうか?
行政文書に残っていればいいのですが、仮に残っていても非常に探しにくいでしょうね。だって、公文書ってタイトルだけでは中身が分かりませんから。

それと本町十七丁目の場合は、その当時は紀伊郡ではないかな?
上京区が菱形で下京区が丸印というのが成り立たないのであれば、次の段階として市役所の認可が菱形、郡役所の認可が菱形だったとか?

う~む、これらも多分ハズレなのでしょうね?
まぁ、こうやってなんだかんだ考えさせてくれるところも仁丹の楽しさです。
Posted by shimo-chan at 2011年01月30日 13:50
上野酒店さんを含めての何軒かが、いつ本町十七丁目から本町十六丁目に変わったかですが、これはかなり難解ですね。

町名の変更ではなくて、「町界」の変更だからです。
土地家屋調査士さんでも、この時代のものとなると困難を極めるものです。

近年の区画整理に起因するならば京都市の各区画整理事務所で資料の閲覧ができそうですが、今回は区画整理事業自体が始まる前のことですからこれは使えそうにないことが分かりました。

あと、法務局の公図ですが、今のような明確なものではなく、この時代のものはまるでスケッチのようなもので、しかも土地の地番の位置関係だけのようですから、これもあまり期待できそうにないことが分かってきました。

ということで、まだまだ継続して調査はしてみますが、やはり、地元に残る何らかの資料に頼るしかないのかな?

でも、いずれにせよ明治43年の京阪電車の開通に起因するのなら、その前後なのでしょう。仁丹が町名表示を始めたのも明治43年頃とされているので、本町十七丁目の木製表示板は誕生してすぐにボツになったということも考えられます。
Posted by shimo-chan at 2011年01月30日 14:19
shimo-chanさん、どうもです。
そうでした、京都市政が始まってるんでしたね。
それに、「本町十七丁目」はまだ紀伊郡だったでした。
ということは、京都市は菱形で、京都府下(紀伊郡)は丸形かな。
やっぱり、一度じっくり上野酒店のご主人にお話を伺いたいです。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年01月31日 00:19
shimo-chan が言っておられた「衣笠南道町」の仁丹看板を
インターネットで見ました。
衣笠にあったことで、京都の人も町名が変わればさっさと取り外すんや!!
と思いました。
Posted by ゆりかもめ at 2011年01月31日 18:46
新たな木製の仁丹看板、感激いたしました。

仁丹看板探しや、それにまつわる色々な歴史的な背景の探索は、
おそらく、色々な方が自分なりに検討されているのだろうと思います。
そんななかで、ブログを通じて発信をされて人々が見る機会が増えた
り、それがきっかけで色々な方が集まる機会ができた、ということだけ
でも、素晴らしいことだと私は感じました。

ただ、立ち上げをされたばかりでしょうから、今後どのような形を目指
されるのかはまたこれからのことと思いますが、これ以上のインパクト
を広げようとするときには、前のコメントでご指摘のあったような問題が
きっと出てくることと思います。

私個人としては、こうした取り組みや集まりがきっかけとなって、街角の
仁丹看板に日が当たり、撤去の憂き目をあう看板が少しでも減り、また、
街を歩く方々がふと町屋やビルの隙間に目を向ける機会が増えてくれ
れば、と思っております。

今後の活躍、お祈り申し上げます。私は近々京都に戻りますので、
できることがありましたらご協力させていただきたいと思っております。
Posted by idecchi_2006 at 2011年01月31日 22:35
ゆりかもめさん
今はなくなってしまった”衣笠南道町”。
どういう経緯で流れていったんでしょうね。
取り外しても、埋蔵してしまうのが、パターンだと思っていたのですが、
そうでもないんですね。
場所は、衣笠荒見町辺りなんでしょうか。
持っている古い地図・ナンバー出版の京都市区分地図に、「衣笠南道公園」と書かれていました。
その公園は、現在は「衣笠児童公園」と呼ばれているようですね。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年02月01日 22:26
いきなり「衣笠南道町」の話題がでてきましたが、
ここ↓で見つけたものです。

http://blogs.yahoo.co.jp/bahun8/5498236.html

へぇ~、衣笠にもあったのかと驚いた次第。
この調子だと京都市内のすべての町に設置されたんじゃないかと
思ってしまいますよね。
Posted by shimo-chan at 2011年02月02日 00:27
木製仁丹の、現在のところ認可番号?と思える記号ですが、
仮に認可番号だったとして、琺瑯製にはそんなの見当たりませんよね。
もう要らないということになった?
その代わり、丈夫で長持ちするものを、となったとか。
Posted by shimo-chan at 2011年02月02日 00:36
idecchi_2006さん、コメントありがとうございます。
近々の帰洛、待ってますよ。
ご存知の通り、このところ仁丹を取り巻く環境が大きく変わりだしています。
メディアでもしばしば取り上げられ、仁丹町名表示板のことを目にする機会が増えました。
それは、平成の復活仁丹町名表示板のこともあり、やはり、まだまだ話題性が先行して、取り上げられている感が強いですね。

仁丹町名表示板は、私たち京都仁丹樂會のメンバーで昨年の集計したところ、750数枚までに減っています。
それに反して、埋蔵仁丹(屋内に取り外して保管されている仁丹町名表示板)は、市内中心部はもちろん、今熊野・高野・岡﨑・聖護院などなど、日々おどろく程に発見が続いています。
希望的観測では、数百枚単位での埋蔵仁丹が、屋内に保管されているとも考えられるほどの勢いです。
やっぱり京都の人は、仁丹町名表示板が好きなんですね。
気になって、放っておいたりできないんだと思います。
その気持ちが勝ちすぎて、家の表周りを改修された時に取り外し、そのまま屋内に仕舞い込んでしまうという状況が見受けられます。
現役で生き続ける仁丹町名表示板を、いつまでも極普通に見ることのできる京都の町並みであって欲しいと思います。
idecchi_2006さん、もしよろしかったら、京都仁丹樂會のミーティングなどにもお誘いしたいと思います。
今後ともよろしくお願い致します。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年02月02日 04:35
shimo-chanさん
そうですね、琺瑯製には認可番号らしきものは無いですね。
あくまでも想像ですが、明治期は行政も改変が頻繁にあって、広告看板に対する法令も変わっていったのではないかと思ったりしています。
仁丹町名表示板だけでなく、その他の森下仁丹の看板類も、その対象になっていることが考えられますので、2月11日に観に行った時にその点をチェックしてみるのも面白いかもしれませんね。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年02月02日 04:46
京都市のサイトで、市内の公園の名称・位置・面積・計画決定日などが一覧になっているページを見つけました。
その中で、<街区公園>の項目でこんなのを見つけました。
・7番  名称/衣笠南道  位置/北・衣笠荒見町    面積/0.32ha  決定日/昭和30年3月31日
・43番 名称/紙屋     位置/北・衣笠北荒見町   面積/0.27ha  決定日/昭和30年3月31日
この二例の名称は、昭和16年廃止になった旧町名・四ヶ町の様です。
旧町名・四ヶ町…衣笠北道町、衣笠南道町、衣笠紙屋町、衣笠殿町

http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000019414.html
Posted by ずんずんずんずん at 2011年02月02日 05:20
最後の書き込みをさせていただきます

やはり、推察したように「本町十七丁目」の推移に
関して決定的な結論が導き出せないということで・・・

shimo-chanさんの推察は近いのですが遥かに違います
地積図では目安しかわかりません
何せ、その昔「筆」で書いたのですし・・・
土地家屋調査士の方もわかる話しだと思います
実際に土地家屋調査士の方に聞いてみればいいのです
聞かないうちにそうやって結論を書くのが許せません

京都法務局の深草支所に行って「閉鎖登記簿」を
参照してみてください
「本町十六丁目」と「本町十七丁目」の変移について
行政が町名地番変更をしたなら、登記所は嘱託で
町名地番の変更登記を行います
その日付が、行政の町名地番を変更した日付になります

ということで、当時の「本町十六丁目」と「本町十七丁目」の
誰でもいいですから、所有権の登記の「閉鎖登記簿」を
参照することによって、ほぼ正確な移行した日付が
確定出来るヒントになります

こういうことをいうのは、嫌味に聞こえてイヤなのですが
「内輪」過ぎるから、手を貸すのはよそうと思うのです
ただ、あまりにもお粗末な推論を立てておられるので
「敵に塩を送る」というつもりで最後のメールとして
お答えを送ることにしました

わたしは、司法書士の受験生です
(過去4度受験してますが、出来が悪いので落ち続けてます)
しかし、こういう問題の解決の手段の糸口は提案できます
でも、がんとして言いたくなかったのは
「この会の閉鎖性」故でした

京都市のオブザーバーになったのならば、これを機に
少しずつオープンにしていって、みなさんの知恵を集結して
より一層の「町名看板」の周知徹底が必要であると思いますが
こんな「内輪」ばかりのもりあがりなれば
誤解を恐れずに言うと「京都市とずぶずぶの関係」という
図式にしかみられません
お金が便宜を供与されているんじゃないかと邪推してしまいます
オープンにしないことが、よりそのことを想像させてしまいます
(わたしは、決してそんなことは思いませんが・・・)

わたしの今回の提案を使われるかどうか?
は、お任せいたしますが、わたしが関わるということは
今後一切ないと思います

idachii_2006atさんのおっしゃることは至極当然と思います

本当に「仁丹の町名看板」の素晴らしさを市民に訴えたい
と正直に思っておられるのであらば、この閉鎖的な状況を
打破して、少しずつオープンにしていき、市民の1人でも多くの
方が興味を持ち、参加されることが本来の姿かと思います

そんな中で、こうやって核心的な活動をされているみなさんが
先導となり、広くひろめていく役割に徹せられることを
更に切に望みます

ということで、わたしの最後の書き込みは終わりにいたします
しっかし、みなさんお粗末な推論ですね
思わず、答えを書いてしまいました
shimo_chanさん、もう少し探求を深めてください
町名地番の変更は、行政がやりますから根拠は残ります
その根拠は「登記簿」に反映されるのです
キツい言い方しましたが、調べ方が甘いです

「内輪」過ぎると、こういった解決の糸口も少なくなるのです
これがいい教訓だと思います

以上で、わたしの答えの記述を終わります
みなさまの今後の「会」の発展を祈念いたします
ありがとうございました
これにて、わたしの書き込みは終了ちとさせていただきます
今後も、書きこむことは2度とないと断言出来ます
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2011年02月04日 00:24
しかし・・・

idachii_2006さんには「会」への勧誘があって
わたしにはなかったんですね~
やっばり、人を選ぶのでしょうか?

それならば仕方ないですが・・・
わたしも、町名看板の撮影が400枚を超えました
それでも、会への参加のお誘いがかからないのは
嫌味なことを言う人間は、嫌うということなんでしょうね

ここの書き込みを見て、とても残念な気持ちになりました
なので、わたしは参加したくないと余計に思うのです
さようなら
大変失望いたしました
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2011年02月04日 00:36
思うに・・・

なにをそんなにもったいぶってるのかな、と・・・
しっかり調べればわかることなのに
あれこれと論理を弄ばれる・・・

もっと、やっておられる「会」に格式をつけたい
と思っておられるような感じが見受けられますが
もう少し「何を探したくて」「何がしたい」という
ことを明確にされた方がいいと思います

そういう意味では、これからの「町名看板」の探索や
今回のように町名地番が変わっている事案に関して
司法書士や土地家屋調査士の方と連携していくことも
今後必要かと思いますよ

本当に、京都に「仁丹の琺瑯看板」を今後残して
行きたいと考えていて、広くその存在を市民に周知を
していこうと思ってるならなおさらやと思ってます

それが、出来ずに「京都市とずぶすぶ」で内輪だけの
会にされるんやったら「京都市のオブザーバー」も
辞退された方がいいし、表舞台に立つことは辞めた方が
いいと、他人ながらにお節介ながら感じてしまいます

わたしのように、町名看板400枚を撮影しても
そちらの会に誘われることがないのですから・・・
そういう意味で「内輪」の会と思ってます
他の人には「ぜひ」と声をかけるのですから・・・
この差は何なんでしょうかね~

言えるのは、わたしは「会」に声がかけられなかった
という事実です
これにて、もう書き込みはいたしませんので失礼いたします
みなさんで「内輪」で勝手に好き放題やってくださいませ
さようなら
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2011年02月04日 01:06
今回の木製「本町十七丁目」からは、森下仁丹がこの事業を始めたとされる時期をもう少し詳しく絞り込めそうですが、もうひとつ木製の設置範囲も考え直さなくてはなりませんね。

希少な木製は上京、中京、下京と言った中心区における存在しか知られていなかったので、てっきり、中心区から手始めに木製でスタートし、その展開途上で琺瑯に変わって周辺部まで到達したという先入観を持っていました。

でも、今回の件で、木製時代にすでに広い範囲にまで及んでいたということが分かりました。そして、そのエネルギーにも驚かされます。

現在多く残る琺瑯製もてっきり昭和の御大典が契機になったと先ずは考えましたが、大正時代の古写真の出現であっさりとその説はくずれたように、ほんと仁丹はどこまでも深く、終わりのないことを再認識した次第です。
Posted by shimo-chan at 2011年02月05日 13:55
記事の中でも書いていますが、
木製仁丹町名表示板の材質について、あれやこれやと考えていたところ、
上野酒店のご主人からメールをいただき、
おそらく、これは松材であろうという情報をいただきました。
こういった木材に詳しい方に、あの木製仁丹町名表示板を見ていただいた結果、
この木目などから、間違いないとのことです。
木製仁丹町名表示板の謎がまた一つ明かされました。
上野酒店さん、貴重な情報をありがとうございます。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年02月10日 08:24
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