CATEGORY:森下仁丹看板
2008年03月29日
仁丹町名表示板~東山區一橋宮ノ内町~
久方ぶりの仁丹看板です。
もう去年の夏に撮影のものですから、
現在ひょっとして消滅看板の仲間入りになっているかもしれませんが・・・
この東山區表記の仁丹看板というのも、結構珍しいですね。
大体、琺瑯タイプの仁丹看板の多くは、
大正期から昭和3(1928)年の昭和天皇御大典の頃までに設置されたものの様です。
しかし、東山區表記ということは、
昭和4年(1929)4月1日、東山区が下京区から分区した以降の設置ということなのです。
その辺り周辺にも仁丹看板は多数存在しているのですが、
表記は”下京區”となっていますから、”新しいけど珍しい看板”です。
因みに、昭和4年(1929)4月1日で、京都市は今までの上京区・下京区の2区から、
一気に5区へと行政区を分区しました。
その時にできた新区に、前述の東山区が下京区から分区に加えて,
左京区が上京区から分区、中京区が上京・下京両区から分区しました。
もう去年の夏に撮影のものですから、
現在ひょっとして消滅看板の仲間入りになっているかもしれませんが・・・
この東山區表記の仁丹看板というのも、結構珍しいですね。
大体、琺瑯タイプの仁丹看板の多くは、
大正期から昭和3(1928)年の昭和天皇御大典の頃までに設置されたものの様です。
しかし、東山區表記ということは、
昭和4年(1929)4月1日、東山区が下京区から分区した以降の設置ということなのです。
その辺り周辺にも仁丹看板は多数存在しているのですが、
表記は”下京區”となっていますから、”新しいけど珍しい看板”です。
因みに、昭和4年(1929)4月1日で、京都市は今までの上京区・下京区の2区から、
一気に5区へと行政区を分区しました。
その時にできた新区に、前述の東山区が下京区から分区に加えて,
左京区が上京区から分区、中京区が上京・下京両区から分区しました。
平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」を発見
船はし屋さんで、仁丹町名表示板!
京都まち歩きマップ
復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!
京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」
「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動
船はし屋さんで、仁丹町名表示板!
京都まち歩きマップ
復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!
京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」
「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動
東山の場合は、下京区を東山区に手直しした痕跡のある看板が多数見受けられるのですが、この看板はどうやら正真正銘、最初から「東山区」だったようですね。
私も“マユツバもの”かと思って、至近距離で観察しましたが、手を加えた痕跡が全くありませんでした。
と言うことは、昭和4年4月1日以降の作ということなのでしょう。
右京区の「嵯峨野神ノ木町」や「嵯峨野秋街道区域」も同様ですね。
他には、一応、「北区紫野上柏野町 西町」、「北区紫野東藤ノ森町」、「中京区堺町通竹屋町上ル橘町」、「中京区東洞院通錦小路上ル元竹田町」、「中京区壬生馬場町」などもありますが、中には明らかに功名に細工されていそうなものもあります。
以上のことから、基本的に昭和4年3月31日までに設置が終わったが、ごくごく一部、追加発注されたのではと想像しています。
現在でさえも600枚以上は現存している京都の仁丹、しかもそのほとんどすべてと言ってよいほどのものが上京・下京時代のものですから、昭和4年3月31日までに一気に作成されたと考えられます。
”全国津々浦々”とのことですが、京都の場合は通り名の使用が中心となるので規格は他都市よりも大きく、さらに通り名の組み合わせのこだわりなどもあって、並々ならぬエネルギーが注ぎ込まれていることが分かります。その背景に「御大典」があったと考えればすっきり納得できるような気がしました。
ちなみに、阪急京都線は「新京阪鉄道」として京阪電鉄が造ったものですが、それも「御大典」に間に合わせるべく突貫工事がされているほどですので、当時の京都に対する、もしくは御大典に対する感覚は、現在からは想像し難いほど大きなものだったに違いないでしょう。そこに森下仁丹も目を付けたのでは?
それにしても、今、目の前に残っている昭和の歴史がよく分かっていないというのは何とももどかしい話です。平安時代や幕末などの資料はいっぱいあるのに、、、
修学院村および松ヶ崎村が左京区に編入されたのが昭和6年4月1日なので、製作はそれ以降ということになるでしょう。
右京区が誕生し、嵯峨町が編入されたのも同じく昭和6年4月1日でしたので、先ほどのコメントの右京区のも昭和6年以降となるでしょう。
ただ、北区は昭和30年9月1日の新設ですので、先ほどのコメントにおける上柏野町や東藤ノ森町のは要注意です。もし、当初からのものであれば戦後も作られていたということになりますから。念のため、写真を拡大して調べてみたら、どうもかなり怪しいです。上柏野町のは「北区」の下にどうやら「上京」が隠れているようにも見えます。目の高さに設置されていますので、要再調査です。
東藤ノ森町のは家屋の2階外壁に設置されているので、写真を拡大しただけでは明確にはなりませんが、何となく筆跡が怪しいですね。
以上、いい加減なコメントをしたので、訂正させていただきました。
京都市は、昭和の御大典に向けて、都市機能の整備は一大事業だったのではないかと思うのです。
だから、森下仁丹もこの好機を逃すはずがなく、
仁丹看板の設置を急速に進めたとしても、ごく自然なことだと思います。
しかし、新京阪が御大典に間に合わせるべく、突貫工事で建設されたとは知りませんでした。
でも、shimo-chanさんの言われるように、
昭和の歴史でわからないことがとても多いように思いますね。
もどかしい思いと、こうやって探索する楽しみと、
悲喜こもごもといったところでしょうか。
昭和8年5月1日、町名変更により「柳原宮ノ内町」から変っていました。
したがって、製作時期を昭和8年5月1日以後と4年ほど狭めることができそうです。
旧名の看板もあったことが考えられますが、町名変更記念?に地元が追加注文したのではないでしょうか?
同時に、「一橋野本町」も「柳原野本町」から変更されていますので、東山区表示の看板がもう1枚は存在したことが十分考えられます。(私は未発見ですが)
上京、中京、下京といった圧倒的多数の看板は昭和4年4月1日(左京・中京・東山新設日)までに作製されたものの、その後も追加として、昭和6年(松ヶ崎や修学院が左京区へ編入された年)や昭和8年(上記東山の例)にも製作されたといったところでしょうか。
いくらなんぼでも「中京区堺町通竹屋町上ル橘町」は本物だと思っていましたが、撮影した写真のその部分をアップしてみたら、明白に手が加えられていました。
上京区の「上」の字を白色で塗り潰し、その上に「中」の字を筆跡や太さや濃さなどを真似て書き、しかも褪色の度合いも同じですので、見誤っても当然という巧みさです。
ちなみに、この橘町の看板は「ホーローの旅」(泉麻人・町田忍著・2002年・幻冬舎)にも唯一の中京区として採り上げられています。
と言うことで、どうやら中心区は上京区と下京区だけが作られ、中京区が新設された昭和4年4月1日以後製作分はないと、今のところ言えそうです。
なるほど、町名変更があったのですか。
なかなか興味深い事実ですね。
だから、東山區表記の仁丹看板が、ここでしか見られないんですね。
それを考えると、よく残ってくれたというところです。
残ってなかったら、町名変更の事実も知らないまんまでしたからね。
追伸 後書だまし看板には、私も何度もやられました。