京都ずんずん
https://zunzun.kyo2.jp
京都の四季折々、興味津々ずんずん魂でずんずんと観て廻ります。
ja
ずんずん
2013-08-04T06:01:44+09:00
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東本願寺の蓮の花、きれい!
https://zunzun.kyo2.jp/e422315.html
東本願寺のお堀の蓮が、きれいな花を咲かせています。
現在は南側のお堀だけになっていますが、
亀(みどり亀?)に蓮の茎や新芽が食べられ枯死してしまうまでは、
正面の烏丸側でも、美しく咲きそろった蓮花が観られたそうです。
見ごろ時間は、朝9時頃まででしょうか。
それを過ぎると、しぼみ始めてしまいます。
東本願寺のお堀の蓮が、きれいな花を咲かせています。
現在は南側のお堀だけになっていますが、
亀(みどり亀?)に蓮の茎や新芽が食べられ枯死してしまうまでは、
正面の烏丸側でも、美しく咲きそろった蓮花が観られたそうです。
見ごろ時間は、朝9時頃まででしょうか。
それを過ぎると、しぼみ始めてしまいます。
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自然
ずんずん
2013-08-04T06:01:44+09:00
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遷座中の俊成社 竣功まぢか?!
https://zunzun.kyo2.jp/e383262.html
烏丸通松原下ル・俊成町に鎮座していた俊成社。
社地にホテルが建設されることになり、しばらくお引越しとなって久しいが、
いよいよ、新たな鎮座地も竣功間近となっている。
ただ少し疑問に思うことは、以前の社殿は南面して鎮座していたが、
この状況からすると、社殿は西面することになりそうだ。
本当に、いいのかな?
因みに、御神霊と社殿は、現在、菅大臣神社に遷座しておられる。
京都市産業観光局の京都観光navi 「平清盛の京を歩く」 で、遷座の状況を伝えている。
この画像は、2007年8月24日撮影のもの。
当時、すでに烏丸松原東南角に建っていたビルは取り壊され、社殿の背後は空地となっていた。
しかし、空地のまま長く放置され、土地の利用が定まっていない様子であった。
傍目からの印象だったが、俊成社の命運や如何に!と危ぶまれた。
この時、社殿の裏側(北面)を見てみたら玉垣に切れ間があり、出入りが出来る構造になっていた。
取り壊されたビルが建設される以前、つまり町家に囲まれていた時代に、
毎日のお勤めがしやすいように、裏からも出入りできるように作られた戸口なのかもしれない。
下の画像は、2012年9月9日時点のgoole map ストリートビュだが、
更地のまま放置され、工事フェンスで囲われた状況は、2010年以前の姿を伝えている。
その後、2010年12月17日現在の撮影では、コインパーキングがOPENし、
更地のまま放って置かれている状態から脱出したものの、
いつ何時、状況が激変するかもしれない環境かと思われた。
現代社会のなかで翻弄される小祠の姿を見るようだった。
駒札は根元から折れたのか、立て掛けられたままになっていた。
早く、俊成社が新装なった社地に鎮座するのを見たい。
烏丸通松原下ル・俊成町に鎮座していた俊成社。
社地にホテルが建設されることになり、しばらくお引越しとなって久しいが、
いよいよ、新たな鎮座地も竣功間近となっている。
ただ少し疑問に思うことは、以前の社殿は南面して鎮座していたが、
この状況からすると、社殿は西面することになりそうだ。
本当に、いいのかな?
因みに、御神霊と社殿は、現在、菅大臣神社に遷座しておられる。
京都市産業観光局の京都観光navi 「平清盛の京を歩く」 で、遷座の状況を伝えている。
この画像は、2007年8月24日撮影のもの。
当時、すでに烏丸松原東南角に建っていたビルは取り壊され、社殿の背後は空地となっていた。
しかし、空地のまま長く放置され、土地の利用が定まっていない様子であった。
傍目からの印象だったが、俊成社の命運や如何に!と危ぶまれた。
この時、社殿の裏側(北面)を見てみたら玉垣に切れ間があり、出入りが出来る構造になっていた。
取り壊されたビルが建設される以前、つまり町家に囲まれていた時代に、
毎日のお勤めがしやすいように、裏からも出入りできるように作られた戸口なのかもしれない。
下の画像は、2012年9月9日時点のgoole map ストリートビュだが、
更地のまま放置され、工事フェンスで囲われた状況は、2010年以前の姿を伝えている。
その後、2010年12月17日現在の撮影では、コインパーキングがOPENし、
更地のまま放って置かれている状態から脱出したものの、
いつ何時、状況が激変するかもしれない環境かと思われた。
現代社会のなかで翻弄される小祠の姿を見るようだった。
駒札は根元から折れたのか、立て掛けられたままになっていた。
早く、俊成社が新装なった社地に鎮座するのを見たい。
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祠堂を訪ねて
ずんずん
2012-09-10T01:24:28+09:00
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地蔵盆~ご本尊、お出かけ中?
https://zunzun.kyo2.jp/e380818.html
8月19日、久方ぶりに、京都市中をぶら歩きです。
非常に観るもの全てが新鮮で、ウキウキずんずんしてしまいます。
思わずカメラを向けてしまったのが、この一枚。
お地蔵さんがお出かけ中。お堂はもぬけの殻。
「今日は地蔵盆なんやね・・・」
家主のお地藏さんは、只今お町内のみなさまのもとで、愉しいひとときを過ごしていらっしゃいます。
不明門通・仏具屋町にて
非常に観るもの全てが新鮮で、ウキウキずんずんしてしまいます。
思わずカメラを向けてしまったのが、この一枚。
お地蔵さんがお出かけ中。お堂はもぬけの殻。
「今日は地蔵盆なんやね・・・」
家主のお地藏さんは、只今お町内のみなさまのもとで、愉しいひとときを過ごしていらっしゃいます。
不明門通・仏具屋町にて
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街
ずんずん
2012-08-22T21:21:19+09:00
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近江の伝統野菜「下田なす」
https://zunzun.kyo2.jp/e379892.html
夏のゆうげに欠かせないのが、冷奴と冷やしトマト。
さらにもう一品、茄子を塩で揉んで、だし醤油を少したらして頂いている。
暑気に困憊気味の胃袋でも、それがあると食欲がでてくる。
ところが、近年、その塩揉みに最適の茄子を見つけて喜んでいる。
滋賀県の伝統野菜「下田なす」がそれである。
普通の茄子よりも圧倒的に小振りで、鶏の卵大。
皮が柔らかくて、灰汁はほとんどない。
やんわりと甘みがあって、きめの細かさは、群を抜いている。
伝統野菜と書いたように、滋賀県湖南市(旧甲西町)・下田地区で、
古来より少量だけ栽培されてきた。
水茄子の一種のようだが、苗木は大量の水を欲するらしく、
水田に畝を作って栽培しているという。
初の出会いは二年前の夏。
平和堂坂本店の野菜売り場で見かけ、試しに購入したのが始まり。
それ以来、下田なすの虜になったが、再び店頭で見かけることはなかった。
下田なすの面影だけを求めて、一年がたった去年の夏、
仕事で毎日通る湖南市平松の旧東海道に、近隣の農家が営む野菜即売場があった。
その棚に、あの可愛い姿が、ざるに盛られているのを見つけることができた。
一盛り200円という格安価格であった。
地産地消、地元でしか手に入らないのは、ちょっと困りものだが、
やはり、今夏も待ちに待っての下田なすに、舌鼓を打っている。
情報によると、国道一号線沿いにある「こなんマルシェ」でも購入できるとか。
夏のゆうげに欠かせないのが、冷奴と冷やしトマト。
さらにもう一品、茄子を塩で揉んで、だし醤油を少したらして頂いている。
暑気に困憊気味の胃袋でも、それがあると食欲がでてくる。
ところが、近年、その塩揉みに最適の茄子を見つけて喜んでいる。
滋賀県の伝統野菜「下田なす」がそれである。
普通の茄子よりも圧倒的に小振りで、鶏の卵大。
皮が柔らかくて、灰汁はほとんどない。
やんわりと甘みがあって、きめの細かさは、群を抜いている。
伝統野菜と書いたように、滋賀県湖南市(旧甲西町)・下田地区で、
古来より少量だけ栽培されてきた。
水茄子の一種のようだが、苗木は大量の水を欲するらしく、
水田に畝を作って栽培しているという。
初の出会いは二年前の夏。
平和堂坂本店の野菜売り場で見かけ、試しに購入したのが始まり。
それ以来、下田なすの虜になったが、再び店頭で見かけることはなかった。
下田なすの面影だけを求めて、一年がたった去年の夏、
仕事で毎日通る湖南市平松の旧東海道に、近隣の農家が営む野菜即売場があった。
その棚に、あの可愛い姿が、ざるに盛られているのを見つけることができた。
一盛り200円という格安価格であった。
地産地消、地元でしか手に入らないのは、ちょっと困りものだが、
やはり、今夏も待ちに待っての下田なすに、舌鼓を打っている。
情報によると、国道一号線沿いにある「こなんマルシェ」でも購入できるとか。
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産物
ずんずん
2012-08-14T13:29:43+09:00
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祇園祭2012・豊園泉正寺榊のちまき
https://zunzun.kyo2.jp/e377035.html
豊園泉正寺榊奉賛会の粽を、今年もいただきました。
”豊園泉正寺榊”は、山鉾巡行の終わった17日夕方、
八坂神社を出御する中御座神輿(素戔嗚尊)に供奉する真榊です。
ここ豊園泉正寺榊の粽は、八坂神社に持ち込んで御祓いを受けたもので、
数多い祇園祭の粽の中でも、なかなかそこまで行ったものはありません。
趣きは質素ですが、御守袋の中には榊の一葉が入った、手の込んだ造りになっています。
また、作られる本数も少量で、奉賛会の皆さんに配られる数に加えて、
宵山で売られるのは数十本程とのこと。
これは、まさにご利益のある粽ですね。
★豊園泉正寺榊(2010年までは豊園御真榊と呼ばれていた)については、ご参照下さい。
【祇園祭2010・豊園御真榊建て】 http://zunzun.kyo2.jp/e224417.html
【祇園祭2010・神幸祭 久世駒形稚児】 http://zunzun.kyo2.jp/e224436.html
豊園泉正寺榊奉賛会の粽を、今年もいただきました。
”豊園泉正寺榊”は、山鉾巡行の終わった17日夕方、
八坂神社を出御する中御座神輿(素戔嗚尊)に供奉する真榊です。
ここ豊園泉正寺榊の粽は、八坂神社に持ち込んで御祓いを受けたもので、
数多い祇園祭の粽の中でも、なかなかそこまで行ったものはありません。
趣きは質素ですが、御守袋の中には榊の一葉が入った、手の込んだ造りになっています。
また、作られる本数も少量で、奉賛会の皆さんに配られる数に加えて、
宵山で売られるのは数十本程とのこと。
これは、まさにご利益のある粽ですね。
★豊園泉正寺榊(2010年までは豊園御真榊と呼ばれていた)については、ご参照下さい。
【祇園祭2010・豊園御真榊建て】 http://zunzun.kyo2.jp/e224417.html
【祇園祭2010・神幸祭 久世駒形稚児】 http://zunzun.kyo2.jp/e224436.html
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祇園祭2012
ずんずん
2012-07-23T00:21:14+09:00
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祇園祭2012 古式一里塚松飾式 7月14日
https://zunzun.kyo2.jp/e376029.html
14日午後2時、松原中之町(松仲会)にて、
長刀鉾稚児を招いて一里塚松飾式が執り行われました。
祇園社の神前にてお神酒をいただき、参拝の後、
氷水で点てた薄茶の接待を堪能することができました。
あの清涼感のある一口は、いいものです。
長刀鉾稚児を招いて一里塚松飾式が執り行われました。
祇園社の神前にてお神酒をいただき、参拝の後、
氷水で点てた薄茶の接待を堪能することができました。
あの清涼感のある一口は、いいものです。
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祇園祭2012
ずんずん
2012-07-15T07:13:15+09:00
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祝部(生源寺)行丸 四百二十回忌法要
https://zunzun.kyo2.jp/e373479.html
6月23日、祝部行丸(はふりべ ゆきまる)の四百二十回忌法要が、
比叡辻の聖衆来迎寺にある行丸の墓前で行なわれた。
祝部行丸は日吉社の禰宜をつとめていた人物で、
織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失した日吉社の再建に尽力しました。
行丸の再興へ向けての活動がなければ、その後に日吉社や山王祭が姿を留めることができたとしても、
焼き討ち以前よりの伝承は断たれたものになっていたことでしょう。
来迎寺の住職による読経の後、一人ひとり墓前で合掌し、お焼香をあげ、
今の平安な時代に感謝しました。
よく見ると、墓前に向かって左側のお花は榊があげられています。
この部分は、神式になっているのです。
お参りの皆さんも、手に珠数をもち合掌しながら、拍手を打っていました。
法要の後、場所を日吉の馬場南側・芙蓉園本館に移して、「行丸をしのぶ会」が催されました。
毎年楽しみにしております特別講演は、
本会の主催者であります村上忠禧氏所蔵の文化財(古文書や絵画史料など)について、
恒例となりました、嵯峨井建先生と八塚春児先生が解説を交えながらお話を進めるという、
生の文化財に触れながら、歴史文化の空気にドップリ浸り、
濃密な時間を過ごすことができる最高の時間を過ごすことができました。
もうすでに、来年が楽しみになってきました。
比叡辻の聖衆来迎寺にある行丸の墓前で行なわれた。
祝部行丸は日吉社の禰宜をつとめていた人物で、
織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失した日吉社の再建に尽力しました。
行丸の再興へ向けての活動がなければ、その後に日吉社や山王祭が姿を留めることができたとしても、
焼き討ち以前よりの伝承は断たれたものになっていたことでしょう。
来迎寺の住職による読経の後、一人ひとり墓前で合掌し、お焼香をあげ、
今の平安な時代に感謝しました。
よく見ると、墓前に向かって左側のお花は榊があげられています。
この部分は、神式になっているのです。
お参りの皆さんも、手に珠数をもち合掌しながら、拍手を打っていました。
法要の後、場所を日吉の馬場南側・芙蓉園本館に移して、「行丸をしのぶ会」が催されました。
毎年楽しみにしております特別講演は、
本会の主催者であります村上忠禧氏所蔵の文化財(古文書や絵画史料など)について、
恒例となりました、嵯峨井建先生と八塚春児先生が解説を交えながらお話を進めるという、
生の文化財に触れながら、歴史文化の空気にドップリ浸り、
濃密な時間を過ごすことができる最高の時間を過ごすことができました。
もうすでに、来年が楽しみになってきました。
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近江・坂本・延暦寺
ずんずん
2012-06-24T18:23:53+09:00
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菅大臣神社 菅大臣祭・御正体拝見
https://zunzun.kyo2.jp/e368348.html
5月13日、西洞院仏光寺下ルの菅大臣神社で菅大臣祭が行なわれました。
祭礼時のみ、拝殿内の本殿正面に飾られる御正体(みしょうたい)を拝見してきました。
今年は、御正体の前を遮るものがなく、全体を見ることができました。
御正体とは、神仏習合により、
神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像または懸仏(かけぼとけ)のことで、
菅大臣神社の場合、垂迹は天満大自在天神であるのに対して、本地は十一面観音になります。
十一面観音の脇侍に見えているのは、それぞれ本地で、右側が不動明王と、左側が毘沙門天で、
つまり、垂迹は、右側・不動明王が北野天満宮の相殿に祀られている東座の中将殿であり、
左側・毘沙門天が北野天満宮相殿の西座の吉祥女になります。
5月13日、西洞院仏光寺下ルの菅大臣神社で菅大臣祭が行なわれました。
祭礼時のみ、拝殿内の本殿正面に飾られる御正体(みしょうたい)を拝見してきました。
今年は、御正体の前を遮るものがなく、全体を見ることができました。
御正体とは、神仏習合により、
神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像または懸仏(かけぼとけ)のことで、
菅大臣神社の場合、垂迹は天満大自在天神であるのに対して、本地は十一面観音になります。
十一面観音の脇侍に見えているのは、それぞれ本地で、右側が不動明王と、左側が毘沙門天で、
つまり、垂迹は、右側・不動明王が北野天満宮の相殿に祀られている東座の中将殿であり、
左側・毘沙門天が北野天満宮相殿の西座の吉祥女になります。
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お祭・行事
ずんずん
2012-05-16T04:52:28+09:00
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坂本総祭り 2012年5月3日
https://zunzun.kyo2.jp/e366723.html
※この画像は、残念ながら2010年5月3日に撮影したものです。
山王祭が一段落して間もない5月3日、坂本では「坂本総祭り」が行なわれました。
日吉大社の境外末社である上坂本の二十一社社と下阪本の十一社、
氏子を持っている末社が一斉に行なうお祭です。
上坂本十一社と下阪本八社では、美しい神輿も渡御します。
狭い坂本を、各神社の祭り行列と神輿が行ったり来たりして、行列同士がすれ違うことも起こります。
山王祭が勇壮な大人の祭りに対して、子供たちが主役の祭りです。
境外末社の内の流護因社(ながれごいんしゃ)の総祭りの様子です。
この神輿は、末社の中でも最小でありながら、山王神輿の姿を忠実に再現していて、
眺めれば眺めるほどに、美しい姿をしています。
因みに、平成21年8月、大津市の十社寺でつくる湖信会の結成50周年を記念して、
比叡山延暦寺に大宮神輿が御神幸されましたが、
その際、大宮に供奉してこの流護因社の神輿も神幸し、なんと根本中堂内の中陣中央に奉安されました。
額には、”流護因”の御神号が書かれています。
山王上七社の牛尾宮・三宮宮が鎮座する八王子山を背景にして、氏子の門前にて小休止。
梅辻に流護因社の提灯がかかっていました。
梅辻を北へ曲がります。
この辺りは、穴太積みの石垣が多く残されています。
里坊・大林院にて、神前に御献酒が上げられ、般若心経の読経がなされます。
里坊とは、比叡山上で修行をしてきた僧侶が、高齢となって山を下りて過ごす隠居所(寺院)のことです。
ぼくもいっしょに、まんまんちゃんあん!
大きさは小さくとも、山王神輿と同じ様に白棒が着けられています。
黒棒・白棒に、かえ縄が巻かれていないところぐらいです。
大政所前にある流護因社の社殿。
こちらは、下野天満宮の神輿。
神社下の石段で、少年たちによる山王祭の午ノ神事さながらの出御が行なわれる。
山王祭が一段落して間もない5月3日、坂本では「坂本総祭り」が行なわれました。
日吉大社の境外末社である上坂本の二十一社社と下阪本の十一社、
氏子を持っている末社が一斉に行なうお祭です。
上坂本十一社と下阪本八社では、美しい神輿も渡御します。
狭い坂本を、各神社の祭り行列と神輿が行ったり来たりして、行列同士がすれ違うことも起こります。
山王祭が勇壮な大人の祭りに対して、子供たちが主役の祭りです。
境外末社の内の流護因社(ながれごいんしゃ)の総祭りの様子です。
この神輿は、末社の中でも最小でありながら、山王神輿の姿を忠実に再現していて、
眺めれば眺めるほどに、美しい姿をしています。
因みに、平成21年8月、大津市の十社寺でつくる湖信会の結成50周年を記念して、
比叡山延暦寺に大宮神輿が御神幸されましたが、
その際、大宮に供奉してこの流護因社の神輿も神幸し、なんと根本中堂内の中陣中央に奉安されました。
額には、”流護因”の御神号が書かれています。
山王上七社の牛尾宮・三宮宮が鎮座する八王子山を背景にして、氏子の門前にて小休止。
梅辻に流護因社の提灯がかかっていました。
梅辻を北へ曲がります。
この辺りは、穴太積みの石垣が多く残されています。
里坊・大林院にて、神前に御献酒が上げられ、般若心経の読経がなされます。
里坊とは、比叡山上で修行をしてきた僧侶が、高齢となって山を下りて過ごす隠居所(寺院)のことです。
ぼくもいっしょに、まんまんちゃんあん!
大きさは小さくとも、山王神輿と同じ様に白棒が着けられています。
黒棒・白棒に、かえ縄が巻かれていないところぐらいです。
大政所前にある流護因社の社殿。
こちらは、下野天満宮の神輿。
神社下の石段で、少年たちによる山王祭の午ノ神事さながらの出御が行なわれる。
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近江・坂本・延暦寺
ずんずん
2012-05-04T02:44:21+09:00
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大聖寺門跡 枳殻(からたち)の垣根
https://zunzun.kyo2.jp/e365570.html
昨日の22日、京都仁丹樂會の定例ミーティングに出席するため、
近江坂本から入洛しました。
地下鉄今出川駅にて下車して、二番出口から地上に出て、とりあえず北へと歩き出しました。
お天気はすこし雨模様でしたが、
西陣の会場までプチ散策をしてみようと思い立ちました。
しばらくして、白い花をつけた垣根が見えてきました。
よく見ると、花弁の可愛さに反して、鋭い刺が何本もついています。
あぁー、これはひょっとして”カラタチ”?
思わずカメラを向けてしまいました。
これは、大聖寺門跡の土塀に沿って植え込まれている垣根でした。
現在建設中の同志社大学今出川キャンパス新棟工事の真向かいです。
そのカラタチ垣根のことを仁丹樂會のメンバーに話ししたところ、
河原町正面にある「渉成園」の周囲も、
かつては、やはり枳殻(カラタチ)の垣根が植わっていたそうです。
つまり、北・東・南の三面を取り囲んでいたとのことで、
別名で”枳穀邸(きこくてい)”と呼ばれるのも頷ける程だったそうです。
現在は、南面の門の両脇に少しだけ当時の面影を残しているだけとなっているそうです。
★おまけ
「からたちの花」
作詞 北原白秋
作曲 山田耕筰
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。
からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかつたよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
昨日の22日、京都仁丹樂會の定例ミーティングに出席するため、
近江坂本から入洛しました。
地下鉄今出川駅にて下車して、二番出口から地上に出て、とりあえず北へと歩き出しました。
お天気はすこし雨模様でしたが、
西陣の会場までプチ散策をしてみようと思い立ちました。
しばらくして、白い花をつけた垣根が見えてきました。
よく見ると、花弁の可愛さに反して、鋭い刺が何本もついています。
あぁー、これはひょっとして”カラタチ”?
思わずカメラを向けてしまいました。
これは、大聖寺門跡の土塀に沿って植え込まれている垣根でした。
現在建設中の同志社大学今出川キャンパス新棟工事の真向かいです。
そのカラタチ垣根のことを仁丹樂會のメンバーに話ししたところ、
河原町正面にある「渉成園」の周囲も、
かつては、やはり枳殻(カラタチ)の垣根が植わっていたそうです。
つまり、北・東・南の三面を取り囲んでいたとのことで、
別名で”枳穀邸(きこくてい)”と呼ばれるのも頷ける程だったそうです。
現在は、南面の門の両脇に少しだけ当時の面影を残しているだけとなっているそうです。
★おまけ
「からたちの花」
作詞 北原白秋
作曲 山田耕筰
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。
からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかつたよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。]]>
街
ずんずん
2012-04-24T00:00:51+09:00
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日吉大社・山王祭2012/松明造り・鈴縄巻き・神輿上げ
https://zunzun.kyo2.jp/e355904.html
今年も、山王祭の季節がやってきた。
今日2月26日、八王子山山麓の仮屋(神輿庫)にて鈴縄巻きが行なわれ、
来週日曜の3月4日の神輿上げ(おこしあげ)で、一ヵ月半におよぶ山王祭が始まる。
2011年の鈴縄巻きの様子は 「日吉大社・山王祭2011 鈴縄巻き・2月27日」
2011年の神輿上げの様子は 「日吉大社・山王祭2011 神輿上げ(お輿上げ)・3月6日」
松明造りも着々と進められている。
これら松の根を”肥松(こえまつ)”と呼んでいる。松脂を多く含んだ根の部分で、松明造りには欠かせない材料である。
松くい虫にやられた松の根は、その松脂が蓄えられていなくて使い物にならないという。
今日2月26日、八王子山山麓の仮屋(神輿庫)にて鈴縄巻きが行なわれ、
来週日曜の3月4日の神輿上げ(おこしあげ)で、一ヵ月半におよぶ山王祭が始まる。
2011年の鈴縄巻きの様子は 「日吉大社・山王祭2011 鈴縄巻き・2月27日」
2011年の神輿上げの様子は 「日吉大社・山王祭2011 神輿上げ(お輿上げ)・3月6日」
松明造りも着々と進められている。
これら松の根を”肥松(こえまつ)”と呼んでいる。松脂を多く含んだ根の部分で、松明造りには欠かせない材料である。
松くい虫にやられた松の根は、その松脂が蓄えられていなくて使い物にならないという。
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山王祭・日吉大社
ずんずん
2012-02-26T13:00:00+09:00
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伊勢大神楽 近江・旧甲西町平松にて 2012年1月13日
https://zunzun.kyo2.jp/e355906.html
去年の6月、「橋弁慶山 胴懸復元新調お披露目」の記事更新から早や8ヶ月、
久方ぶりの記事アップになってしまいました。
さてさて、今年の年明けの1月5日なんですが、
滋賀県旧石部町の旧東海道沿いで、獅子頭を捧げて沿道の一軒一軒を訪ねている一行が、
舞を舞っているのを見かけました。
しかし、じっくり見たいと思いながら、その日は立ち止まって見ている余裕がなく、
後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にしました。
ところが、一週間ほど経った1月13日の昼過ぎ、幸運にも再びの出会いが訪れました。
先日の石部からは少し東に進んだ、旧甲西町平松の旧東海道沿いで、
やはりあの同じ一行が、一軒の家の前で、獅子頭を捧げて舞っているのを見つけたのです。
一行のお一人に伺ってみたところ、伊勢から来ていて伊勢大神楽だということでした。
この道具一式を入れた箱、長持と呼んだらいいのだろうか、上部に神棚が祭られていて、
荷車に載せて移動ができるようになっています。
四人一組が2チームで、都合八人で廻っておられるようでした。
旧東海道に沿って家々を回って神楽が演じられていました。最初は、訪ねた家の神棚で、その次に仏壇前で、
それから家の表で行われました。
この周辺は、毎年1月13日と決まっているそうです。
ネットで”伊勢大神楽”で検索してみると、この一行は「伊勢大神楽講社・森本忠太夫組」であることがわかりました。
国の重要無形民俗文化財に指定されている六組の内の一組であることがわかりました。
西日本を中心に中国、四国まで2府11県を、一年をかけて廻っておられるとのことで、
そのお祓いの旅のことを”回壇”と呼ぶようです。
伊勢大神楽講社のサイトは、http://www.ise-daikagura.or.jp/
森本忠太夫組の回壇風景は、こちらに紹介されています。
1月13日の様子を動画で撮りましたのでご覧下さい。
久方ぶりの記事アップになってしまいました。
さてさて、今年の年明けの1月5日なんですが、
滋賀県旧石部町の旧東海道沿いで、獅子頭を捧げて沿道の一軒一軒を訪ねている一行が、
舞を舞っているのを見かけました。
しかし、じっくり見たいと思いながら、その日は立ち止まって見ている余裕がなく、
後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にしました。
ところが、一週間ほど経った1月13日の昼過ぎ、幸運にも再びの出会いが訪れました。
先日の石部からは少し東に進んだ、旧甲西町平松の旧東海道沿いで、
やはりあの同じ一行が、一軒の家の前で、獅子頭を捧げて舞っているのを見つけたのです。
一行のお一人に伺ってみたところ、伊勢から来ていて伊勢大神楽だということでした。
この道具一式を入れた箱、長持と呼んだらいいのだろうか、上部に神棚が祭られていて、
荷車に載せて移動ができるようになっています。
四人一組が2チームで、都合八人で廻っておられるようでした。
旧東海道に沿って家々を回って神楽が演じられていました。最初は、訪ねた家の神棚で、その次に仏壇前で、
それから家の表で行われました。
この周辺は、毎年1月13日と決まっているそうです。
ネットで”伊勢大神楽”で検索してみると、この一行は「伊勢大神楽講社・森本忠太夫組」であることがわかりました。
国の重要無形民俗文化財に指定されている六組の内の一組であることがわかりました。
西日本を中心に中国、四国まで2府11県を、一年をかけて廻っておられるとのことで、
そのお祓いの旅のことを”回壇”と呼ぶようです。
伊勢大神楽講社のサイトは、http://www.ise-daikagura.or.jp/
森本忠太夫組の回壇風景は、こちらに紹介されています。
1月13日の様子を動画で撮りましたのでご覧下さい。
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近江・坂本・延暦寺
ずんずん
2012-02-26T06:56:34+09:00
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祇園祭2011・橋弁慶山 胴懸復元新調お披露目
https://zunzun.kyo2.jp/e311810.html
旧明倫校の京都芸術センターで、
祇園祭 後祭の舁山 【橋弁慶山】の胴懸復元新調お披露目が行われた。
今年の祇園祭・17日の山鉾巡行で、お披露目の舞台を迎える。
この「加茂葵祭行列図」は、下絵を円山応挙が描いたと伝えられており、文化六年(1809)に製作されたもの。
傷みが激しくなっていたのを、今回、左面を平成19-20年、右面を平成21-22年に復元新調し、この程完成を見た。
上の二枚が文化六年のもの、下が今回新調したもの。
退色しているのがよくわかる。
上が左面で、下が右面になる。
左面は、上賀茂神社の鳥居へ到着しようとする行列を表している。
右面は、朝日が程よく昇った時間に勅使の一行が、賀茂川に架かる橋を渡る場面を描いている。
会場を出ようとした時、なんと末富さんのお菓子をお土産に頂いた。
この日のために、特別にあつらえたお菓子と聞きしていたので、帰ってからワクワクしながら開けてみると・・・
かわいい五条大橋の擬宝珠、そして、橋板に葵と御所車の文様、
それから、橋弁慶山の”橋”の一字を焼印で押した上用饅頭がでてきた。
しっとりとして、とてもおいしかった。
祇園祭 後祭の舁山 【橋弁慶山】の胴懸復元新調お披露目が行われた。
今年の祇園祭・17日の山鉾巡行で、お披露目の舞台を迎える。
この「加茂葵祭行列図」は、下絵を円山応挙が描いたと伝えられており、文化六年(1809)に製作されたもの。
傷みが激しくなっていたのを、今回、左面を平成19-20年、右面を平成21-22年に復元新調し、この程完成を見た。
上の二枚が文化六年のもの、下が今回新調したもの。
退色しているのがよくわかる。
上が左面で、下が右面になる。
左面は、上賀茂神社の鳥居へ到着しようとする行列を表している。
右面は、朝日が程よく昇った時間に勅使の一行が、賀茂川に架かる橋を渡る場面を描いている。
会場を出ようとした時、なんと末富さんのお菓子をお土産に頂いた。
この日のために、特別にあつらえたお菓子と聞きしていたので、帰ってからワクワクしながら開けてみると・・・
かわいい五条大橋の擬宝珠、そして、橋板に葵と御所車の文様、
それから、橋弁慶山の”橋”の一字を焼印で押した上用饅頭がでてきた。
しっとりとして、とてもおいしかった。
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祇園祭2011
ずんずん
2011-06-22T22:37:56+09:00
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『日吉山王祭』 山口幸次氏が2011年・写真展開催!
https://zunzun.kyo2.jp/e294387.html
去年の春、サンライズ出版『日吉山王祭』を著された山口幸次氏が、
今年も平和堂アルセ坂本店にて、山王祭写真展を開催されている。
会期は4月4日~4月17日まで、アルセ坂本店2階にて。
山口氏よりお電話を頂き、家の用事を済ませたあと、会場に駆けつけた。
山口氏直々の解説付きで、じっくりと各行事・神事の一つ一つを見ることができた。
1ヶ月半におよぶ山王祭の全体像を、40枚近くの写真で追うことができる。
3月頭のお輿上げ神事から、14日の若宮港から還幸する神輿渡御列まで、
山口氏ならではのアングルで捉えた写真は、一見の価値あり。
■平和堂 アルセ坂本店/JR比叡山坂本駅下車徒歩5分
今年も平和堂アルセ坂本店にて、山王祭写真展を開催されている。
会期は4月4日~4月17日まで、アルセ坂本店2階にて。
山口氏よりお電話を頂き、家の用事を済ませたあと、会場に駆けつけた。
山口氏直々の解説付きで、じっくりと各行事・神事の一つ一つを見ることができた。
1ヶ月半におよぶ山王祭の全体像を、40枚近くの写真で追うことができる。
3月頭のお輿上げ神事から、14日の若宮港から還幸する神輿渡御列まで、
山口氏ならではのアングルで捉えた写真は、一見の価値あり。
■平和堂 アルセ坂本店/JR比叡山坂本駅下車徒歩5分
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山王祭・日吉大社
ずんずん
2011-04-11T13:18:45+09:00
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真宗興正派本山・興正寺の桜
https://zunzun.kyo2.jp/e292734.html
4月2日の昼前、徒歩で京都駅から七条大宮まで向かっていた。
待ち合わせの時間に早く着きそうなので、ちょっと遠回りして北小路通を抜けて大宮に出てやろうと思いついた。
北小路通は七条通の一筋北の東西の通り。
七条通という大通りの裏にあって目立たない通りなのだが、歩けばなかなか面白い。
仏具店が軒を連ね、仁丹町名表示板の密集地帯であることもわかる。
その北小路通を、堀川通からさらに西進するには、
興正寺と西本願寺の境に建つ北小路門という小振りの門をくぐることになる。
一見、お寺の中に入る感じなのだが、れっきとした通りである。しかし、夜間は門が閉ざされ通り抜けることはできない。
江戸期以前の京都市中には、木戸や門が沢山あって、通りといえども、夜間は自由に通り抜けることができなかった。
その名残をとどめているようである。
その門をくぐって、西本願寺の豪華絢爛な国宝唐門の前を横切りながら、
龍谷大学の大宮学舎の重要文化財群を眺めて、大宮通まで通り抜けられる。
自動車の騒音からはしばし離れて、ゆっくりと景色を楽しみながら歩こうと目論んだのだ。
そうこうして、北小路門の前までやってきたところ、門が閉まっていた。
門か壁かの改修中なのだろうか、通り抜けができないので閉められているようだった。
仕方なく歩を戻して七条から行こうとした時、興正寺の阿弥陀堂門が目に入った。
そうだ、興正寺の境内を抜けて七条大宮まで歩くルートが頭に浮かんだ。
門をくぐって、境内に敷き詰められた玉砂利をざくざくと音を立てて進んでゆく。
右手には、なんとも重厚な造りの経蔵が建ち、その背後には西本願寺の飛雲閣の南面を望むことができた。
そのまま南西方向へ斜めに境内を進んで行くと、すぐに七条通が見えてきた。
境内から、もう通りに出ようかというその間際、ふと御影堂の裏側に目が行った。
そこには、ちらほらと咲き始めた桜の大木が、枝を大きく伸ばしていた。
時計を見ると、まだまだ時間に余裕がある。
おもむろにカメラを取り出して、しばらく桜の撮影に集中してしまった。
■真宗興正派 本山興正寺 京都市下京区堀川通七条上ル
4月2日の昼前、徒歩で京都駅から七条大宮まで向かっていた。
待ち合わせの時間に早く着きそうなので、ちょっと遠回りして北小路通を抜けて大宮に出てやろうと思いついた。
北小路通は七条通の一筋北の東西の通り。
七条通という大通りの裏にあって目立たない通りなのだが、歩けばなかなか面白い。
仏具店が軒を連ね、仁丹町名表示板の密集地帯であることもわかる。
その北小路通を、堀川通からさらに西進するには、
興正寺と西本願寺の境に建つ北小路門という小振りの門をくぐることになる。
一見、お寺の中に入る感じなのだが、れっきとした通りである。しかし、夜間は門が閉ざされ通り抜けることはできない。
江戸期以前の京都市中には、木戸や門が沢山あって、通りといえども、夜間は自由に通り抜けることができなかった。
その名残をとどめているようである。
その門をくぐって、西本願寺の豪華絢爛な国宝唐門の前を横切りながら、
龍谷大学の大宮学舎の重要文化財群を眺めて、大宮通まで通り抜けられる。
自動車の騒音からはしばし離れて、ゆっくりと景色を楽しみながら歩こうと目論んだのだ。
そうこうして、北小路門の前までやってきたところ、門が閉まっていた。
門か壁かの改修中なのだろうか、通り抜けができないので閉められているようだった。
仕方なく歩を戻して七条から行こうとした時、興正寺の阿弥陀堂門が目に入った。
そうだ、興正寺の境内を抜けて七条大宮まで歩くルートが頭に浮かんだ。
門をくぐって、境内に敷き詰められた玉砂利をざくざくと音を立てて進んでゆく。
右手には、なんとも重厚な造りの経蔵が建ち、その背後には西本願寺の飛雲閣の南面を望むことができた。
そのまま南西方向へ斜めに境内を進んで行くと、すぐに七条通が見えてきた。
境内から、もう通りに出ようかというその間際、ふと御影堂の裏側に目が行った。
そこには、ちらほらと咲き始めた桜の大木が、枝を大きく伸ばしていた。
時計を見ると、まだまだ時間に余裕がある。
おもむろにカメラを取り出して、しばらく桜の撮影に集中してしまった。
■真宗興正派 本山興正寺 京都市下京区堀川通七条上ル
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自然
ずんずん
2011-04-08T12:00:00+09:00
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日吉大社・山王祭2011 大松明(鼻松明)造り
https://zunzun.kyo2.jp/e288728.html
この時期、中部・広芝・至誠・下阪本の四つの駕輿丁では、それぞれ大松明(鼻松明)が造られている。
3月19日の夕方、松明造りの場所を回って撮影をさせていただいた。
駕輿丁ごとに、午ノ神事用に一本、宵宮用に二本、合計三本の鼻松明が造られる。
つまり、四つの駕輿丁で十二本が出揃うことになる。
広芝駕輿丁にて。
中部駕輿丁にて。
下阪本駕輿丁にて。
残念ながら、至誠駕輿丁での大松明を撮影することができなかった。
大松明の竹材を束ね締められている注連縄の数は、駕輿丁・午ノ神事用・宵宮用によって、細かく異なる。
また、この締め方も駕輿丁によって違っている。
それら大松明は、四月に入ると鼻役を務める駕輿丁宅の前に立てられ、
皆に、晴の大役を披露し祝ってもらうのだ。
これは、去年の4月10日に撮影したものである。
大松明の長さは約10m。家の大屋根をはるかに越える高さである。
坂本中に、「謹んで鼻役を務め申す!」と、名乗りを上げている様にも見える。
そして皆は、「見事、務めを果たして、よい男になれよ!」と祝っている様だ。
桜も、晴の舞台を祝ってくれている。
この時期、中部・広芝・至誠・下阪本の四つの駕輿丁では、それぞれ大松明(鼻松明)が造られている。
3月19日の夕方、松明造りの場所を回って撮影をさせていただいた。
駕輿丁ごとに、午ノ神事用に一本、宵宮用に二本、合計三本の鼻松明が造られる。
つまり、四つの駕輿丁で十二本が出揃うことになる。
広芝駕輿丁にて。
中部駕輿丁にて。
下阪本駕輿丁にて。
残念ながら、至誠駕輿丁での大松明を撮影することができなかった。
大松明の竹材を束ね締められている注連縄の数は、駕輿丁・午ノ神事用・宵宮用によって、細かく異なる。
また、この締め方も駕輿丁によって違っている。
それら大松明は、四月に入ると鼻役を務める駕輿丁宅の前に立てられ、
皆に、晴の大役を披露し祝ってもらうのだ。
これは、去年の4月10日に撮影したものである。
大松明の長さは約10m。家の大屋根をはるかに越える高さである。
坂本中に、「謹んで鼻役を務め申す!」と、名乗りを上げている様にも見える。
そして皆は、「見事、務めを果たして、よい男になれよ!」と祝っている様だ。
桜も、晴の舞台を祝ってくれている。
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山王祭・日吉大社
ずんずん
2011-03-23T12:34:59+09:00
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日吉大社・山王祭2011 桟敷組 3月20日
https://zunzun.kyo2.jp/e288702.html
3月20日朝9:00から、大政所(宵宮場)の正面に祀られている産屋神社(王子宮)の背後に、
桟敷席が組み立てられた。
20日の午後から天候が崩れ、予備日となっている21日も雨模様の予報が出ていただけに、
毎年のことながら、手際よく午前中で作業は完了された。
八王子山の奥宮石段下の参道に、張り出し舞台の設置も行なわれた。
残念ながら、20日はお彼岸でお寺さんが来られるのと重なり、
作業中の姿をカメラに収めることができなかったが、午後から雨の中を見て回った。
王子宮の後ろには、まだ白梅が綺麗に咲いていた。
4月13日、宵宮落しの時には、このガードレールは取り除かれ、
四基の神輿は、この樫木の左側を回り込んで、すぐ50mほど右奥の鼠社まで先を競って舁き出される。
2009年3月15日撮影、八王子山奥宮の参道張り出し設置の状況を上げておく。
この年は、3月15日が桟敷組であった。
ものの見事に、ギザギザの石段をトレースして板が敷き詰められている。
毎年、間違うことなく組み立てられる様に、床板に番号が振られている。
3月20日朝9:00から、大政所(宵宮場)の正面に祀られている産屋神社(王子宮)の背後に、
桟敷席が組み立てられた。
20日の午後から天候が崩れ、予備日となっている21日も雨模様の予報が出ていただけに、
毎年のことながら、手際よく午前中で作業は完了された。
八王子山の奥宮石段下の参道に、張り出し舞台の設置も行なわれた。
残念ながら、20日はお彼岸でお寺さんが来られるのと重なり、
作業中の姿をカメラに収めることができなかったが、午後から雨の中を見て回った。
王子宮の後ろには、まだ白梅が綺麗に咲いていた。
4月13日、宵宮落しの時には、このガードレールは取り除かれ、
四基の神輿は、この樫木の左側を回り込んで、すぐ50mほど右奥の鼠社まで先を競って舁き出される。
2009年3月15日撮影、八王子山奥宮の参道張り出し設置の状況を上げておく。
この年は、3月15日が桟敷組であった。
ものの見事に、ギザギザの石段をトレースして板が敷き詰められている。
毎年、間違うことなく組み立てられる様に、床板に番号が振られている。
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山王祭・日吉大社
ずんずん
2011-03-21T18:26:00+09:00
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日吉大社・山王祭2011 桟敷組 肩組
https://zunzun.kyo2.jp/e288700.html
「桟敷組」と「肩組」の告知が掲示がされた。
『桟敷組』
3月20日と予備日として21日で設定されている。
これは、大政所前の宵宮落し見物用の桟敷席と、
奥宮石段下の参道を拡げる、張り出し舞台が組み上げられる。
『肩組』
4月2日、日吉大社にて、肩組が行われ、山王祭の神輿を舁く位置が発表される。
「桟敷組」と「肩組」の告知が掲示がされた。
『桟敷組』
3月20日と予備日として21日で設定されている。
これは、大政所前の宵宮落し見物用の桟敷席と、
奥宮石段下の参道を拡げる、張り出し舞台が組み上げられる。
『肩組』
4月2日、日吉大社にて、肩組が行われ、山王祭の神輿を舁く位置が発表される。
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山王祭・日吉大社
ずんずん
2011-03-15T12:52:00+09:00
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平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」を発見
https://zunzun.kyo2.jp/e287109.html
去る2月10日、京都市役所に復活仁丹町名表示板・第一号設置の報をお知らせしたが、
森下仁丹から選出された設置町内会へは、それぞれに仁丹町名表示板は発送済みである。
そろそろ、その設置事例が見られるのではないかと思っていたところ、
「新町通綾小路下ル・船鉾町」で発見することができた。
「下京区」は左から右へ。 ”区”は新字体。 ”下る”の”る”はひらがな。
これこそ、平成に登場した新しい仁丹町名表示板である。
広告は、広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の理念。
森下仁丹の創業当時からの思いが結実した姿である。
懐古趣味のレトロ看板ではなく、現代に生きる町名表示板であるからこそ、
素材は対候性にすぐれた琺瑯製で、小学生でも判読できる表記になっている。
この建物は、船鉾町の町会所で、この前に祇園祭の時、船鉾が建つ。
路面に見える、四つの礎石のようなものは、この石の上に鉾の土台となる柱を建てる目印ともなるが、
その昔、道路がまだ舗装されていなかった時代、まさに鉾の礎石の役目をしていた。
同じような石は、この祇園祭の山鉾町を巡ると、見つけることができる。
その他の選出された設置町内会にも、近い内に設置されるものと思われる。
ひょっとしたら、すでに設置済みの町内があるかもしれない。
また一つ、新しい町歩きの楽しみができたというものである。
因みに、選出されている町内会は下記の通り。
○上京区加賀屋町 ○上京区大黒町 ○中京区三条町 ○中京区六角町 ○中京区百足屋町
○中京区小結棚町 ○中京区釜座町 ○中京区三条油小路町 ○中京区下樵木町 ○下京区船鉾町
○下京区東塩小路町 ○左京区銀閣寺町
森下仁丹株式会社 関連情報掲載はこちら。
京都市役所に復活仁丹町名表示板・第一号設置の報をお知らせしたが、
森下仁丹から選出された設置町内会へは、それぞれに仁丹町名表示板は発送済みである。
そろそろ、その設置事例が見られるのではないかと思っていたところ、
「新町通綾小路下ル・船鉾町」で発見することができた。
「下京区」は左から右へ。 ”区”は新字体。 ”下る”の”る”はひらがな。
これこそ、平成に登場した新しい仁丹町名表示板である。
広告は、広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の理念。
森下仁丹の創業当時からの思いが結実した姿である。
懐古趣味のレトロ看板ではなく、現代に生きる町名表示板であるからこそ、
素材は対候性にすぐれた琺瑯製で、小学生でも判読できる表記になっている。
この建物は、船鉾町の町会所で、この前に祇園祭の時、船鉾が建つ。
路面に見える、四つの礎石のようなものは、この石の上に鉾の土台となる柱を建てる目印ともなるが、
その昔、道路がまだ舗装されていなかった時代、まさに鉾の礎石の役目をしていた。
同じような石は、この祇園祭の山鉾町を巡ると、見つけることができる。
その他の選出された設置町内会にも、近い内に設置されるものと思われる。
ひょっとしたら、すでに設置済みの町内があるかもしれない。
また一つ、新しい町歩きの楽しみができたというものである。
因みに、選出されている町内会は下記の通り。
○上京区加賀屋町 ○上京区大黒町 ○中京区三条町 ○中京区六角町 ○中京区百足屋町
○中京区小結棚町 ○中京区釜座町 ○中京区三条油小路町 ○中京区下樵木町 ○下京区船鉾町
○下京区東塩小路町 ○左京区銀閣寺町
森下仁丹株式会社 関連情報掲載はこちら。
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森下仁丹看板
ずんずん
2011-03-14T22:19:25+09:00
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日吉大社・山王祭2011 神輿上げ(お輿上げ)・3月6日
https://zunzun.kyo2.jp/e92227.html
4月12・13・14・15日に最高潮を迎える湖国三大祭の一つ「日吉大社・山王祭(さんのうさい)」。
それに先立つこと40余日。
3月第一日曜、先週末の6日、"神輿上げ(おこしあげ)神事"が行われ、一ヵ月半に及ぶ山王祭がいよいよ始まった。
これは、奥宮を目前にして、最後の石段を舁き上げられる牛尾宮。
”神輿上げ(お輿上げ)”は、標高381mの八王子山山頂の直下に建つ”奥宮(おくみや)”へ、
神輿2基を奉安する神事である。
一基が八角の神輿「牛尾宮」、もう一基が「三宮宮」の神輿。
4月12日夜の”午ノ神事(うまのじんじ)”で、新たなる御神霊をみなぎらせた神輿は、再び山を下る。
それまで、神輿は山上の宮にて、時期が熟すのを静かに待つ。
八王子山山麓の仮屋前に、定刻の9時半よりも一時間ばかり早く着いてしまった。
しかし、すでに集まる人影が見える。
こちらが、牛尾宮の神輿。山王上七社の内、この一基だけが八角形をしている。
たびたびコメントをいただく八角さんは、今年の宵宮落しで、牛尾宮の”飛び”される。
対面に、こちらが三宮宮。
横に集まっているユニフォーム姿の集団は、北大津高校・野球部のメンバーである。
この神輿上げに奉仕するようになってから、実力を発揮して、甲子園への出場が決まりだした。
これも、日吉さんのご利益なのだ。
登り口には、注連縄によって結界が張られていた。
駕與丁のメンバーも次第に集まってきた。
そうしていると、東本宮の方から、新たな集団がやってきた。
やはり野球のユニフォーム姿である。
こちらは、比叡山高校野球部の面々であった。
比叡山野球部も、日吉さんのご加護の元に、甲子園出場を目指すのだ。
この強力な助っ人が加わって、二基の神輿は奥宮を目指して登ることになる。
カメラを向けられてインタビュー中。
定刻の9時半になった。
いよいよ始まる。
馬渕宮司、神職、今年の山王祭実行委員長、総奉行、役員の方々、駕與丁が勢ぞろいした。
馬渕宮司より、平成23年山王祭実行委員長へ委嘱状が渡された。
他、役員一人一人に委嘱状が渡されて後、馬渕宮司から挨拶があり、
いよいよ、今年の山王祭が始まる。
一斉に駕與丁たちが神輿に取り付いた。
神輿に白棒(いわゆる長柄)を付ける。
さらに、引っ張り上げるための縄を、神輿に取り付ける。
手馴れた手付きで、縄がさばかれてゆく。
ここ山王祭の神輿の白棒には、縄が巻かれる。
急峻な山道を舁き上がる山王祭の神輿は、独特の縄縛りが施される。
この縄の縛りを、”かえ縄”と呼ぶ。
駕與丁によって縛り方が異なり、神輿の胴から始めるものもあれば、逆に舁き棒の先から始めるものもある。
どちらにしても、かえ縄がないと、急な坂では、神輿を肩に引き付けることができないのだ。
両社の神輿とも、準備が整ったようだ。
実行委員長の拍子木の合図で、一気に牛尾宮の神輿が動き出した。
この拍子木は、お山の神様に、これから結界を割って山に入ることを告げる挨拶となる。
今年は、牛尾宮のみでしか行われなかったが、本来は三宮宮の神輿が動く前にも、拍子木は打ち鳴らされる。
実行委員長と総奉行(昨年の実行委員長)が並んで、扇で神輿を招く。
急な山坂を、牛尾宮の神輿が登りはじめた。
さあここから一時間ばかり、何度か休憩を入れながら山上の奥宮を目指す。
拝殿に奉安するまでは、もう途中に平坦な場所はない。
さあ、次は三宮宮の神輿である。
手際よく伸ばされた縄に、比叡山高校野球部員のみんなが付いた。
この急坂である。
京都の神輿の様に、長い長柄を付けていると、逆に邪魔で舁くことができない。
黒棒のみで舁くことが多い山王祭では、白棒にはあまり装飾は施されていない。
美しく輝く神輿と、実用本位の舁き棒のコントラストが、山王神輿の真髄を見ることができる。
叡山を越えて入洛していた強訴全盛の時代を彷彿とさせる。
急坂であるが故に、幾重にも九十九折れの山道が続く。
このシーンを見てもわかるように、京都の神輿に付く長い長柄は、
平坦な土地である都の神輿であるが故に、発達した形であることがわかる。
都大路で威力を発揮する13~15mの長柄は、坂本では無用の長物となる。
ここで、一旦小休止。恒例のみかんを頬張って、英気を養う。
さあ、大岩のところまで登ってきた。
牛尾宮の後ろに、三宮の神輿ががっちり付いて来ている。
ここで二度目の休憩。あと一折れすると奥宮が見えてくる。
先行して、奥宮まで登ってきた。
先方に見える懸崖造りが社殿で、左側が三宮宮、右側が牛尾宮となる。
奥宮のすぐ下まで登ってきた。
北大津高校の強力な牽引部隊は、さすがに、まったくの疲れを見せていない。
ここで、二社の神輿は白棒を取り外す。
最後の参道が、急な石段になっているのに加えて、狭くて約100度位の曲がりになっている。
12日夜の午ノ神事では、桟敷といって、参道を広げるように足場が組まれる。
しかし、この神輿上げでは、まだ桟敷組みが行われていない。
白棒を付けたままでは、狭い参道から駕與丁は食み出てしまう。
黒棒のみにした神輿を、駕與丁の肩と、縄で引き上げる野球部、
そして後から竹棒で押し上げる力が一丸となって、無事に宮に奉安することができるのだ。
いよいよ、最後の正念場である。
分解写真を見るように、眺めて欲しい。
無事に牛尾宮の神輿が奉安された。
正面には、金大巌がそびえている。
牛尾宮の八角神輿に続いて、三宮宮の神輿が舁き上げられる。
続いては、動画でその臨場感を味わってほしい。
無事に、三宮宮の神輿も奉安することができた。
駕與丁たちの顔に、安堵の色が見える。
薄暗い拝殿の中で、神輿の輝きが際立つ。
振り返ると、向い側の牛尾宮拝殿の窓から、牛尾宮の神輿が見える。
拝殿内では、実行委員長がケーブルテレビのインタビューを受けておられた。
無事に奉安したことを神様にお知らせする、神事が執り行われていた。
拝殿の中央に神輿を安置していないのは、
3月15日に牛神楽祭が執り行われるからで、その時に神楽が舞われる。
その場所を作るための用意なのだ。
これは、幸運にも見せていただくことができた、牛尾宮の下殿の跡である。
下殿とは、明治以前の神仏習合時代に、本地である仏像が祀られていた部屋である。
垂迹である神様が祀られている内陣の真下に位置している。
奥の小部屋の右に曲がった奥に仏様がおられたという。
三宮宮でも、神事が執り行われていた。
先ほどまでの賑わいはどこへやら。
皆は、下山して、仮屋前での接待に舌鼓を打っているはずである。
おにぎりが1000個に、粕汁・漬物などなど、用意されたようだ。
さあ、私たちも急ごう。おにぎりが無くならないうちに下山しなければ。
神輿上げは、人力オンリーで山に神輿を舁いて上げて、そしてまた山から下りて来る。
太平洋戦争後、山上の奥宮までの神輿上げは、しばらく中断していたらしい。
しかし、昭和48年に新しい神輿を造営したのを機に、古式の姿が復活して現在まで続けられている。
『日吉山王祭』の著者・山口氏に伺ったところ、中断していた当時は、
八王子山奥宮への参道の途中、申の馬場(さるのばんば)という場所に、二基の神輿が奉安され、
そこから山を下って”午ノ神事”を行っていたという。
山口氏が曰く、山の中に、ぽつんと二基の神輿が寂しそうだった、そうだ。
4月12・13・14・15日に最高潮を迎える湖国三大祭の一つ「日吉大社・山王祭(さんのうさい)」。
それに先立つこと40余日。
3月第一日曜、先週末の6日、"神輿上げ(おこしあげ)神事"が行われ、一ヵ月半に及ぶ山王祭がいよいよ始まった。
これは、奥宮を目前にして、最後の石段を舁き上げられる牛尾宮。
”神輿上げ(お輿上げ)”は、標高381mの八王子山山頂の直下に建つ”奥宮(おくみや)”へ、
神輿2基を奉安する神事である。
一基が八角の神輿「牛尾宮」、もう一基が「三宮宮」の神輿。
4月12日夜の”午ノ神事(うまのじんじ)”で、新たなる御神霊をみなぎらせた神輿は、再び山を下る。
それまで、神輿は山上の宮にて、時期が熟すのを静かに待つ。
八王子山山麓の仮屋前に、定刻の9時半よりも一時間ばかり早く着いてしまった。
しかし、すでに集まる人影が見える。
こちらが、牛尾宮の神輿。山王上七社の内、この一基だけが八角形をしている。
たびたびコメントをいただく八角さんは、今年の宵宮落しで、牛尾宮の”飛び”される。
対面に、こちらが三宮宮。
横に集まっているユニフォーム姿の集団は、北大津高校・野球部のメンバーである。
この神輿上げに奉仕するようになってから、実力を発揮して、甲子園への出場が決まりだした。
これも、日吉さんのご利益なのだ。
登り口には、注連縄によって結界が張られていた。
駕與丁のメンバーも次第に集まってきた。
そうしていると、東本宮の方から、新たな集団がやってきた。
やはり野球のユニフォーム姿である。
こちらは、比叡山高校野球部の面々であった。
比叡山野球部も、日吉さんのご加護の元に、甲子園出場を目指すのだ。
この強力な助っ人が加わって、二基の神輿は奥宮を目指して登ることになる。
カメラを向けられてインタビュー中。
定刻の9時半になった。
いよいよ始まる。
馬渕宮司、神職、今年の山王祭実行委員長、総奉行、役員の方々、駕與丁が勢ぞろいした。
馬渕宮司より、平成23年山王祭実行委員長へ委嘱状が渡された。
他、役員一人一人に委嘱状が渡されて後、馬渕宮司から挨拶があり、
いよいよ、今年の山王祭が始まる。
一斉に駕與丁たちが神輿に取り付いた。
神輿に白棒(いわゆる長柄)を付ける。
さらに、引っ張り上げるための縄を、神輿に取り付ける。
手馴れた手付きで、縄がさばかれてゆく。
ここ山王祭の神輿の白棒には、縄が巻かれる。
急峻な山道を舁き上がる山王祭の神輿は、独特の縄縛りが施される。
この縄の縛りを、”かえ縄”と呼ぶ。
駕與丁によって縛り方が異なり、神輿の胴から始めるものもあれば、逆に舁き棒の先から始めるものもある。
どちらにしても、かえ縄がないと、急な坂では、神輿を肩に引き付けることができないのだ。
両社の神輿とも、準備が整ったようだ。
実行委員長の拍子木の合図で、一気に牛尾宮の神輿が動き出した。
この拍子木は、お山の神様に、これから結界を割って山に入ることを告げる挨拶となる。
今年は、牛尾宮のみでしか行われなかったが、本来は三宮宮の神輿が動く前にも、拍子木は打ち鳴らされる。
実行委員長と総奉行(昨年の実行委員長)が並んで、扇で神輿を招く。
急な山坂を、牛尾宮の神輿が登りはじめた。
さあここから一時間ばかり、何度か休憩を入れながら山上の奥宮を目指す。
拝殿に奉安するまでは、もう途中に平坦な場所はない。
さあ、次は三宮宮の神輿である。
手際よく伸ばされた縄に、比叡山高校野球部員のみんなが付いた。
この急坂である。
京都の神輿の様に、長い長柄を付けていると、逆に邪魔で舁くことができない。
黒棒のみで舁くことが多い山王祭では、白棒にはあまり装飾は施されていない。
美しく輝く神輿と、実用本位の舁き棒のコントラストが、山王神輿の真髄を見ることができる。
叡山を越えて入洛していた強訴全盛の時代を彷彿とさせる。
急坂であるが故に、幾重にも九十九折れの山道が続く。
このシーンを見てもわかるように、京都の神輿に付く長い長柄は、
平坦な土地である都の神輿であるが故に、発達した形であることがわかる。
都大路で威力を発揮する13~15mの長柄は、坂本では無用の長物となる。
ここで、一旦小休止。恒例のみかんを頬張って、英気を養う。
さあ、大岩のところまで登ってきた。
牛尾宮の後ろに、三宮の神輿ががっちり付いて来ている。
ここで二度目の休憩。あと一折れすると奥宮が見えてくる。
先行して、奥宮まで登ってきた。
先方に見える懸崖造りが社殿で、左側が三宮宮、右側が牛尾宮となる。
奥宮のすぐ下まで登ってきた。
北大津高校の強力な牽引部隊は、さすがに、まったくの疲れを見せていない。
ここで、二社の神輿は白棒を取り外す。
最後の参道が、急な石段になっているのに加えて、狭くて約100度位の曲がりになっている。
12日夜の午ノ神事では、桟敷といって、参道を広げるように足場が組まれる。
しかし、この神輿上げでは、まだ桟敷組みが行われていない。
白棒を付けたままでは、狭い参道から駕與丁は食み出てしまう。
黒棒のみにした神輿を、駕與丁の肩と、縄で引き上げる野球部、
そして後から竹棒で押し上げる力が一丸となって、無事に宮に奉安することができるのだ。
いよいよ、最後の正念場である。
分解写真を見るように、眺めて欲しい。
無事に牛尾宮の神輿が奉安された。
正面には、金大巌がそびえている。
牛尾宮の八角神輿に続いて、三宮宮の神輿が舁き上げられる。
続いては、動画でその臨場感を味わってほしい。
無事に、三宮宮の神輿も奉安することができた。
駕與丁たちの顔に、安堵の色が見える。
薄暗い拝殿の中で、神輿の輝きが際立つ。
振り返ると、向い側の牛尾宮拝殿の窓から、牛尾宮の神輿が見える。
拝殿内では、実行委員長がケーブルテレビのインタビューを受けておられた。
無事に奉安したことを神様にお知らせする、神事が執り行われていた。
拝殿の中央に神輿を安置していないのは、
3月15日に牛神楽祭が執り行われるからで、その時に神楽が舞われる。
その場所を作るための用意なのだ。
これは、幸運にも見せていただくことができた、牛尾宮の下殿の跡である。
下殿とは、明治以前の神仏習合時代に、本地である仏像が祀られていた部屋である。
垂迹である神様が祀られている内陣の真下に位置している。
奥の小部屋の右に曲がった奥に仏様がおられたという。
三宮宮でも、神事が執り行われていた。
先ほどまでの賑わいはどこへやら。
皆は、下山して、仮屋前での接待に舌鼓を打っているはずである。
おにぎりが1000個に、粕汁・漬物などなど、用意されたようだ。
さあ、私たちも急ごう。おにぎりが無くならないうちに下山しなければ。
神輿上げは、人力オンリーで山に神輿を舁いて上げて、そしてまた山から下りて来る。
太平洋戦争後、山上の奥宮までの神輿上げは、しばらく中断していたらしい。
しかし、昭和48年に新しい神輿を造営したのを機に、古式の姿が復活して現在まで続けられている。
『日吉山王祭』の著者・山口氏に伺ったところ、中断していた当時は、
八王子山奥宮への参道の途中、申の馬場(さるのばんば)という場所に、二基の神輿が奉安され、
そこから山を下って”午ノ神事”を行っていたという。
山口氏が曰く、山の中に、ぽつんと二基の神輿が寂しそうだった、そうだ。
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山王祭・日吉大社
ずんずん
2011-03-11T22:42:56+09:00