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京都ずんずん
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京都の四季折々、興味津々ずんずん魂でずんずんと観て廻ります。
ja
Sun, 26 Feb 2012 13:00:00 +0900
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日吉大社・山王祭2012/松明造り・鈴縄巻き・神輿上げ
今年も、山王祭の季節がやってきた。
今日2月26日、八王子山山麓の仮屋(神輿庫)にて鈴縄巻きが行なわれ、
来週日曜の3月4日の神輿上げ(おこしあげ)で、一ヵ月半におよぶ山王祭が始まる。
2011年の鈴縄巻きの様子は 「日吉大社・山王祭2011 鈴縄巻き・2月27日」
2011年の神輿上げの様子は 「日吉大社・山王祭2011 神輿上げ(お輿上げ)・3月6日」
松明造りも着々と進められている。
これら松の根を”肥松(こえまつ)”と呼んでいる。松脂を多く含んだ根の部分で、松明造りには欠かせない材料である。
松くい虫にやられた松の根は、その松脂が蓄えられていなくて使い物にならないという。
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山王祭・日吉大社
Sun, 26 Feb 2012 13:00:00 +0900
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『日吉山王祭』 山口幸次氏が2011年・写真展開催!
去年の春、サンライズ出版『日吉山王祭』を著された山口幸次氏が、
今年も平和堂アルセ坂本店にて、山王祭写真展を開催されている。
会期は4月4日~4月17日まで、アルセ坂本店2階にて。
山口氏よりお電話を頂き、家の用事を済ませたあと、会場に駆けつけた。
山口氏直々の解説付きで、じっくりと各行事・神事の一つ一つを見ることができた。
1ヶ月半におよぶ山王祭の全体像を、40枚近くの写真で追うことができる。
3月頭のお輿上げ神事から、14日の若宮港から還幸する神輿渡御列まで、
山口氏ならではのアングルで捉えた写真は、一見の価値あり。
■平和堂 アルセ坂本店/JR比叡山坂本駅下車徒歩5分
https://zunzun.kyo2.jp/e294387.html
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山王祭・日吉大社
Mon, 11 Apr 2011 13:18:45 +0900
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日吉大社・山王祭2011 大松明(鼻松明)造り
この時期、中部・広芝・至誠・下阪本の四つの駕輿丁では、それぞれ大松明(鼻松明)が造られている。
3月19日の夕方、松明造りの場所を回って撮影をさせていただいた。
駕輿丁ごとに、午ノ神事用に一本、宵宮用に二本、合計三本の鼻松明が造られる。
つまり、四つの駕輿丁で十二本が出揃うことになる。
広芝駕輿丁にて。
中部駕輿丁にて。
下阪本駕輿丁にて。
残念ながら、至誠駕輿丁での大松明を撮影することができなかった。
大松明の竹材を束ね締められている注連縄の数は、駕輿丁・午ノ神事用・宵宮用によって、細かく異なる。
また、この締め方も駕輿丁によって違っている。
それら大松明は、四月に入ると鼻役を務める駕輿丁宅の前に立てられ、
皆に、晴の大役を披露し祝ってもらうのだ。
これは、去年の4月10日に撮影したものである。
大松明の長さは約10m。家の大屋根をはるかに越える高さである。
坂本中に、「謹んで鼻役を務め申す!」と、名乗りを上げている様にも見える。
そして皆は、「見事、務めを果たして、よい男になれよ!」と祝っている様だ。
桜も、晴の舞台を祝ってくれている。
https://zunzun.kyo2.jp/e288728.html
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山王祭・日吉大社
Wed, 23 Mar 2011 12:34:59 +0900
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日吉大社・山王祭2011 桟敷組 3月20日
3月20日朝9:00から、大政所(宵宮場)の正面に祀られている産屋神社(王子宮)の背後に、
桟敷席が組み立てられた。
20日の午後から天候が崩れ、予備日となっている21日も雨模様の予報が出ていただけに、
毎年のことながら、手際よく午前中で作業は完了された。
八王子山の奥宮石段下の参道に、張り出し舞台の設置も行なわれた。
残念ながら、20日はお彼岸でお寺さんが来られるのと重なり、
作業中の姿をカメラに収めることができなかったが、午後から雨の中を見て回った。
王子宮の後ろには、まだ白梅が綺麗に咲いていた。
4月13日、宵宮落しの時には、このガードレールは取り除かれ、
四基の神輿は、この樫木の左側を回り込んで、すぐ50mほど右奥の鼠社まで先を競って舁き出される。
2009年3月15日撮影、八王子山奥宮の参道張り出し設置の状況を上げておく。
この年は、3月15日が桟敷組であった。
ものの見事に、ギザギザの石段をトレースして板が敷き詰められている。
毎年、間違うことなく組み立てられる様に、床板に番号が振られている。
https://zunzun.kyo2.jp/e288702.html
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山王祭・日吉大社
Mon, 21 Mar 2011 18:26:00 +0900
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日吉大社・山王祭2011 桟敷組 肩組
「桟敷組」と「肩組」の告知が掲示がされた。
『桟敷組』
3月20日と予備日として21日で設定されている。
これは、大政所前の宵宮落し見物用の桟敷席と、
奥宮石段下の参道を拡げる、張り出し舞台が組み上げられる。
『肩組』
4月2日、日吉大社にて、肩組が行われ、山王祭の神輿を舁く位置が発表される。
https://zunzun.kyo2.jp/e288700.html
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山王祭・日吉大社
Tue, 15 Mar 2011 12:52:00 +0900
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日吉大社・山王祭2011 神輿上げ(お輿上げ)・3月6日
4月12・13・14・15日に最高潮を迎える湖国三大祭の一つ「日吉大社・山王祭(さんのうさい)」。
それに先立つこと40余日。
3月第一日曜、先週末の6日、"神輿上げ(おこしあげ)神事"が行われ、一ヵ月半に及ぶ山王祭がいよいよ始まった。
これは、奥宮を目前にして、最後の石段を舁き上げられる牛尾宮。
”神輿上げ(お輿上げ)”は、標高381mの八王子山山頂の直下に建つ”奥宮(おくみや)”へ、
神輿2基を奉安する神事である。
一基が八角の神輿「牛尾宮」、もう一基が「三宮宮」の神輿。
4月12日夜の”午ノ神事(うまのじんじ)”で、新たなる御神霊をみなぎらせた神輿は、再び山を下る。
それまで、神輿は山上の宮にて、時期が熟すのを静かに待つ。
八王子山山麓の仮屋前に、定刻の9時半よりも一時間ばかり早く着いてしまった。
しかし、すでに集まる人影が見える。
こちらが、牛尾宮の神輿。山王上七社の内、この一基だけが八角形をしている。
たびたびコメントをいただく八角さんは、今年の宵宮落しで、牛尾宮の”飛び”される。
対面に、こちらが三宮宮。
横に集まっているユニフォーム姿の集団は、北大津高校・野球部のメンバーである。
この神輿上げに奉仕するようになってから、実力を発揮して、甲子園への出場が決まりだした。
これも、日吉さんのご利益なのだ。
登り口には、注連縄によって結界が張られていた。
駕與丁のメンバーも次第に集まってきた。
そうしていると、東本宮の方から、新たな集団がやってきた。
やはり野球のユニフォーム姿である。
こちらは、比叡山高校野球部の面々であった。
比叡山野球部も、日吉さんのご加護の元に、甲子園出場を目指すのだ。
この強力な助っ人が加わって、二基の神輿は奥宮を目指して登ることになる。
カメラを向けられてインタビュー中。
定刻の9時半になった。
いよいよ始まる。
馬渕宮司、神職、今年の山王祭実行委員長、総奉行、役員の方々、駕與丁が勢ぞろいした。
馬渕宮司より、平成23年山王祭実行委員長へ委嘱状が渡された。
他、役員一人一人に委嘱状が渡されて後、馬渕宮司から挨拶があり、
いよいよ、今年の山王祭が始まる。
一斉に駕與丁たちが神輿に取り付いた。
神輿に白棒(いわゆる長柄)を付ける。
さらに、引っ張り上げるための縄を、神輿に取り付ける。
手馴れた手付きで、縄がさばかれてゆく。
ここ山王祭の神輿の白棒には、縄が巻かれる。
急峻な山道を舁き上がる山王祭の神輿は、独特の縄縛りが施される。
この縄の縛りを、”かえ縄”と呼ぶ。
駕與丁によって縛り方が異なり、神輿の胴から始めるものもあれば、逆に舁き棒の先から始めるものもある。
どちらにしても、かえ縄がないと、急な坂では、神輿を肩に引き付けることができないのだ。
両社の神輿とも、準備が整ったようだ。
実行委員長の拍子木の合図で、一気に牛尾宮の神輿が動き出した。
この拍子木は、お山の神様に、これから結界を割って山に入ることを告げる挨拶となる。
今年は、牛尾宮のみでしか行われなかったが、本来は三宮宮の神輿が動く前にも、拍子木は打ち鳴らされる。
実行委員長と総奉行(昨年の実行委員長)が並んで、扇で神輿を招く。
急な山坂を、牛尾宮の神輿が登りはじめた。
さあここから一時間ばかり、何度か休憩を入れながら山上の奥宮を目指す。
拝殿に奉安するまでは、もう途中に平坦な場所はない。
さあ、次は三宮宮の神輿である。
手際よく伸ばされた縄に、比叡山高校野球部員のみんなが付いた。
この急坂である。
京都の神輿の様に、長い長柄を付けていると、逆に邪魔で舁くことができない。
黒棒のみで舁くことが多い山王祭では、白棒にはあまり装飾は施されていない。
美しく輝く神輿と、実用本位の舁き棒のコントラストが、山王神輿の真髄を見ることができる。
叡山を越えて入洛していた強訴全盛の時代を彷彿とさせる。
急坂であるが故に、幾重にも九十九折れの山道が続く。
このシーンを見てもわかるように、京都の神輿に付く長い長柄は、
平坦な土地である都の神輿であるが故に、発達した形であることがわかる。
都大路で威力を発揮する13~15mの長柄は、坂本では無用の長物となる。
ここで、一旦小休止。恒例のみかんを頬張って、英気を養う。
さあ、大岩のところまで登ってきた。
牛尾宮の後ろに、三宮の神輿ががっちり付いて来ている。
ここで二度目の休憩。あと一折れすると奥宮が見えてくる。
先行して、奥宮まで登ってきた。
先方に見える懸崖造りが社殿で、左側が三宮宮、右側が牛尾宮となる。
奥宮のすぐ下まで登ってきた。
北大津高校の強力な牽引部隊は、さすがに、まったくの疲れを見せていない。
ここで、二社の神輿は白棒を取り外す。
最後の参道が、急な石段になっているのに加えて、狭くて約100度位の曲がりになっている。
12日夜の午ノ神事では、桟敷といって、参道を広げるように足場が組まれる。
しかし、この神輿上げでは、まだ桟敷組みが行われていない。
白棒を付けたままでは、狭い参道から駕與丁は食み出てしまう。
黒棒のみにした神輿を、駕與丁の肩と、縄で引き上げる野球部、
そして後から竹棒で押し上げる力が一丸となって、無事に宮に奉安することができるのだ。
いよいよ、最後の正念場である。
分解写真を見るように、眺めて欲しい。
無事に牛尾宮の神輿が奉安された。
正面には、金大巌がそびえている。
牛尾宮の八角神輿に続いて、三宮宮の神輿が舁き上げられる。
続いては、動画でその臨場感を味わってほしい。
無事に、三宮宮の神輿も奉安することができた。
駕與丁たちの顔に、安堵の色が見える。
薄暗い拝殿の中で、神輿の輝きが際立つ。
振り返ると、向い側の牛尾宮拝殿の窓から、牛尾宮の神輿が見える。
拝殿内では、実行委員長がケーブルテレビのインタビューを受けておられた。
無事に奉安したことを神様にお知らせする、神事が執り行われていた。
拝殿の中央に神輿を安置していないのは、
3月15日に牛神楽祭が執り行われるからで、その時に神楽が舞われる。
その場所を作るための用意なのだ。
これは、幸運にも見せていただくことができた、牛尾宮の下殿の跡である。
下殿とは、明治以前の神仏習合時代に、本地である仏像が祀られていた部屋である。
垂迹である神様が祀られている内陣の真下に位置している。
奥の小部屋の右に曲がった奥に仏様がおられたという。
三宮宮でも、神事が執り行われていた。
先ほどまでの賑わいはどこへやら。
皆は、下山して、仮屋前での接待に舌鼓を打っているはずである。
おにぎりが1000個に、粕汁・漬物などなど、用意されたようだ。
さあ、私たちも急ごう。おにぎりが無くならないうちに下山しなければ。
神輿上げは、人力オンリーで山に神輿を舁いて上げて、そしてまた山から下りて来る。
太平洋戦争後、山上の奥宮までの神輿上げは、しばらく中断していたらしい。
しかし、昭和48年に新しい神輿を造営したのを機に、古式の姿が復活して現在まで続けられている。
『日吉山王祭』の著者・山口氏に伺ったところ、中断していた当時は、
八王子山奥宮への参道の途中、申の馬場(さるのばんば)という場所に、二基の神輿が奉安され、
そこから山を下って”午ノ神事”を行っていたという。
山口氏が曰く、山の中に、ぽつんと二基の神輿が寂しそうだった、そうだ。
https://zunzun.kyo2.jp/e92227.html
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山王祭・日吉大社
Fri, 11 Mar 2011 22:42:56 +0900
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山王祭2011 日吉山王研究会 【追補】日吉神社・未の御供
京都室町仏光寺の日吉神社・拝殿、東本宮・二宮の神紋である葵を組み合せた、葵の紋が見える。
日吉大社・山王祭の駕與丁で作られている「日吉山王研究会」が、
坂本・生源寺 別当大師堂にて、嵯峨井 建先生をお呼びして行われた。
テーマは、『明治以前の山王祭』。
小一時間というあっという間の講義であったが、非常に興味深い内容だった。
それは、一般的に「神仏分離令」と呼ばれている、明治政府によって推し進められた政策によって、
実際に起こった生々しい記録の一端を覗くことができたからである。
明治政府は、明治元年(1868)3月28日、神仏分離令(正確には神仏判然令(はんぜんれい)というらしい)を出し、
それを受けた大津裁判所は、翌29日に日吉社へ布告を通達した。
その内容の主なものは、下記の通りである。
1)神社内からの仏像・仏具の排除
2)寺院から神社や関係するものの排除
3)神号を仏号であらわすことの禁止
日吉社では、この日から2週間ほどの間に、仏像・仏具・経巻を破棄、焼却していった。
境内に建ち並んでいた多くの堂塔も、その政策が進むに従い、取り壊されていった。
その様子は、暴動と行っても過言ではないほどに過激なものであったようだ。
結果、この日吉社における神仏判然令の実例は、全国の第一の事例となった。
現在の日吉大社の境内・坂本一円には、まだ宮寺(みやでら)であった当時の、
僅かながらその痕跡を見ることができる。
ところで、その講義の中でのお話に、山王祭の神事の一つである、
4月13日・京都室町仏光寺の日吉神社(山王宮)が行っている「未の御供」のことが出た。
現在は、この通り、京都室町仏光寺の日吉神社の山王町が、その神事に奉仕しているのだが、
本来は、祇園社・現在の八坂神社が行っていたものであったとのことであった。
祇園社は、本来、延暦寺の京都出張所的な位置づけにあった。
京都室町仏光寺の日吉神社が、捨山王であるとはいえ、なぜ御供を献納するのかが、もう一つピンと来なかった。
しかし、延暦寺の鎮守社である日吉社の祭礼である山王祭に、祇園社から御供を献納するというのなら、うなづける話である。
それが、室町仏光寺の日吉神社に移ったのは、明治の神仏判然令によるものかは、確認が取ることができなかった。
現在、未の御供に使われている長櫃に、昨年の山王祭で、慶応年間の銘が入っていたのを見た記憶がある。
確認の必要があるが、慶応四年(=明治元年)であったか・・・。
そうなると、祇園社(八坂神社)から山王宮(日吉神社)が、
未の御供を引き継いで行うようになった時期を、表しているのかもしれない。
因みに、ウィキペディアで見ると、慶応から明治に改元したのは9月8日である。
さらに、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日まで遡って明治としたことがわかった。
すると、上記で、”明治元年(1868)3月28日”に神仏判然令が強行されたのは、まだ慶応四年だったわけで、
その慶応四年の山王祭は、何とか行われた様だが、すでに仏教色を一掃した後の山王祭であったことになる。
すなわち、八坂神社は未の御供にタッチしていない可能性が出てくる。
まずまず、その様なことで、とても有意義な時間を過ごさせていただくことができた。
https://zunzun.kyo2.jp/e286176.html
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山王祭・日吉大社
Thu, 10 Mar 2011 13:29:56 +0900
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日吉大社・山王祭2011 京都室町「日吉神社」 ~未の御供~
山王祭は、1月下旬から祭りのための準備が始まり、3月1日から4月15日まで、様々な神事・行事が行われる。
4月13日の午後、東本宮・牛尾宮・樹下宮・三宮宮の四基の神輿が居並ぶ宵宮場(大政所)で、
”未の御供献納祭”が執り行われる。
そのあとすぐに、場所を移して、西本宮にても御供が献納される。
この御供を献じるのは、はるか比叡山を越えた京都室町仏光寺・山王町の「日吉神社」町役員の方々である。
日吉神社拝殿の脇に掛かっている、「山王宮」の文字が刻まれた神額。
縦寸法が約4尺、1250mmもあった。
廃仏毀釈・神仏分離以前、江戸期のものだ。
裏面をのぞくと、文化八年辛未春(1811年)の銘を確認することができた。
2011年の今年から、ぴったり200年前のものということである。
この日吉神社は、いわゆる捨山王(すてさんのう)と呼ばれる宮の一つで、
平安末期から室町時代に掛けて頻発した、叡山の神輿を舁いての強訴の置き土産なのだ。
時代は堀河天皇の御代(1087~1107)、
比叡山坂本の日吉社の僧兵たちは、山王神輿を担ぎ出して朝廷へ強訴に及んだ。
山王神輿は、そのまま室町仏光寺辺りにあった森に置き捨てられ、僧兵たちは帰参してしまった。
その折、都に置き去りにされた神輿が宮となった。
その後、この地に山王社の祠が建てられ、篤く祀られることとなった。
いつの頃からか、元宮である日吉大社(山王社)の山王祭へ、御供を献納する慣わしとなった。
「山王宮」の神額の大きさからすると、現在の社殿よりも相当大きな建物があったことが想像される。
おそらく、天明の大火後に再建された社殿に掛けられていたものなのだろうか。
その社殿も、幕末になって、再び、蛤御門の変による”どんどん焼け”で焼失したが、
なんとか、神額だけは被災を免れて、現在にその姿を残すことができたのだろう。
やはり、幾多の戦乱、大火を経ながらも、何百年と絶えることなく祀られ続けてこられた証しを見た思いだ。
御祭神は、大己貴命(大宮)、大山咋命(二宮)、玉依姫命荒魂(三宮)の三座を祀っている。
山王上七社の祭神の内でも、特に、大宮(西本宮)・二宮(東本宮)・聖真子(宇佐宮)は”三聖”と呼び尊ばれ、
それに続いて、八王子(牛尾宮)・客人(白山宮)・十禅師(樹下宮)・三宮(三宮宮)と並ぶ。
いにしえの強訴では、その三聖が持ち出されることはなく、
ほとんどの場合、八王子・十禅師・三宮・客人の四社が舁き出されていた様に見受けられる。
ここ日吉神社の三座について、大宮・二宮は後年に勧請したとも思われるが、
玉依姫命荒魂(三宮)を、わざわざ御祭神として祀っているのは、
捨てられた神輿が、三宮の神輿であったのではないかと想像させる。
この捨山王といわれる宮の伝承は、京都市内各所でもよく聞かれる。
やはり、平安末期から続いた、叡山大衆による強訴の置き土産である。
祇園社の境内・北東隅に祀られている日吉社も、捨山王の一社と伝えられる。
また、2月24日の記事で上げた、麩屋町通上白山町の白山神社・下白山町の白山宮 も、その一つと呼べるだろう。
最後に、拝殿前に下がった鈴緒の六角に、このような歌が詠まれていたのをご紹介しよう。
ひえがみの もうしこなるらん ういまごは
よみやおとしの こくにうまれし
宵宮落しの刻に生まれた初孫は 日吉の神さんの申し子なんだろう、ということことでしょうか。
初めての孫を迎えることができたお爺さまが、日吉さんの御加護によって無事に授かったことを感謝し、
喜びに満ちあふれた気持ちを詠んでおられる。 まさに、その笑顔が眼に浮かぶ様だ。
https://zunzun.kyo2.jp/e282494.html
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山王祭・日吉大社
Sat, 05 Mar 2011 11:55:48 +0900
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日吉大社・山王祭2011 鈴縄巻き・2月27日
一昨日の27日、八王子山麓の牛尾・三宮両宮の仮屋において、鈴縄巻きが行われた。
毎年、きっちりと巻かれる鈴縄だが、
午ノ神事、宵宮落しと、激しい神輿振りの神事を経たあとでは、
目一杯に張ったのが嘘の様に、ゆらゆらに緩んでしまう。
予定の時間よりも早く着いたところ、仮屋(神輿庫)の扉はすでに開けられていた。
神輿は静かに、鈴縄を巻き直してもらえるのを待っている。
定刻の9時、馬渕宮司、山王祭役員の方々のご挨拶があり、
いよいよ、今年の山王祭も、神輿が姿を現しての行事が始まった。
駕輿丁たちは、左右に分かれて、牛尾宮・三宮宮、両社の神輿に一斉に取り付いた。
鈴縄は完全に解かれて、一から巻きなおされる。
芯に入ったワイヤーに、真っ赤な鈴縄がぐるぐると巻かれていく。
何と呼ぶのだろうか、藁を叩いて柔らかくする木槌の様な道具で、縄を叩き締めてゆく。
神輿に白棒(長柄)を付ける際の縄を締めるのと同じ要領だ。
中部駕輿丁の法被の背に、東本宮(二宮)の御神紋である双葉葵が入っている。
日吉大社の東本宮系の神々は、京都の賀茂社・松尾社と関係が深い。
美しく巻き直った鈴縄の牛尾宮(八王子)の神輿
鈴縄の張りが目に見えてがっちりした三宮宮(三宮)の神輿
これら二基の神輿以外の東本宮・樹下宮の神輿も、鈴縄が巻き直されていた。
やはりこの二基も、宵宮落しでバッタンバッタンと派手に揺さぶられるので、緩みが出るのだ。
それに対して、西本宮系の三社(西本宮・宇佐宮・白山宮)の神輿は、派手な神輿振りを行なう神事はない。
点検を行なうのみで、巻き直しはなかったようである。
「日吉山王祭」の著者である山口幸次氏の話によると、
東本宮系の四基と西本宮系の三基では、神輿の構造が異なっているとのことである。
つまり、西本宮系の神輿で宵宮落しをすれば、神事が終わる頃には神輿は破壊されてしまう。
それ程に、山王祭の東本宮系の神事は、激しい祭の姿を見せる。
さあ、来週末の3月6日は、いよいよ神輿上げ(おこしあげ)である。
牛尾宮・三宮宮の二基の神輿が、八王子山上の奥宮に入る。
途中、参道と御灯道が交わるあたりで一度休憩を取るものの、
あの急坂を人の力だけで舁き上がるのは、叡山を越えて入洛した、いにしえの強訴を彷彿とさせる。
今年も、駕輿丁に加えて、北大津高・比叡山高の野球部が助勢してくれるのだろう。
https://zunzun.kyo2.jp/e283648.html
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山王祭・日吉大社
Tue, 01 Mar 2011 23:13:48 +0900
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日吉大社・山王祭2011 松明造り・鈴縄巻き・神輿上げ 告知
時雨の合間を縫って、日吉大社に参拝してきた。
今年も、いよいよ山王祭が近づいてきた。
これから、4月12~15日の祭のクライマックスに向けて、様々な神事・行事が執り行われる。
1月下旬から会合が重ねられ、各駕輿丁では松明造りも始まっている。
駕輿丁倉庫前に積まれた松から、なんともいい香りがしている。
松脂(マツヤニ)、文字通り松の脂が放つ香りだ。
脂をたっぷりと含んだ松のことをジンと呼び、脂が多いほど赤みを帯びている。
去年、広芝駕輿丁で毎年、そのジンを調達する方に話を聴いた。
坂本では、ジンのことを肥松(こえまつ)と呼び、脂をたっぷりと蓄えた松の倒木の根を掘りだして使う。
松くい虫で枯れた松の根からは、いい肥松は取れない。
生きた松の倒木の根でないと、脂を貯めていないのだ。
中部・広芝・至誠・下阪本の四つの駕輿丁の中で、どこがいい肥松を調達するかは、その役の腕の見せ所なのだ。
そういうことでいうと、祭りの準備は何年も前から始まっているといってもいい。
◆『鈴縄巻き』 2月27日 9:00 仮屋前集合
山王神輿の鈴縄は飾りではない。
激しい神輿振りにも耐えうる様に、蕨手と黒棒をガッチリとつなぎ、強度を増すのだ。
鎌倉・室町期の古い神輿に見られる様に、鈴は小振りのもの付く。
やはり、左右に三つずつなのだが、ただ、一点に房のごとくにかたまって付くのが特徴である。
これも、激しい動きに対応した結果の配置なのかもしれない。
◆『神輿上げ』 3月6日 9:00 仮屋前集合
牛尾宮・三宮宮の二基の神輿を、八王子山山頂直下の奥宮まで舁き上げ奉安する。
この神輿上げを以って、山王祭の幕開けとなる。
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山王祭・日吉大社
Sun, 13 Feb 2011 22:56:04 +0900
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甲冑展~もののふたちの美~
昨日、旧竹林院で開催されていた”甲冑展”に行ってきました。
展示場の様子も撮影したかったのですが、文化財保護のため撮影厳禁でした。
この展示会は、織田信長によって比叡山全山・坂本一帯が焼き討ちされた後、
日吉社の再建に尽力・奔走した祝部行丸の御子孫の方が主催されておられます。
甲冑は当然ながら、日吉社や山王祭に関する古文書・絵図が多数展示されていました。
今年は、”山門荒法師と警護衆”をテーマに、甲冑が十領(だったと思う)が展示され、
私が必死に書き写したのが、「日吉山王祭礼・未之御供調進覚書」と「北嶺諸堂塔之圖」の二つ。
「日吉山王祭礼・未之御供調進覚書」は、
現在も山王祭の4月13日に京都・室町仏光寺の日吉神社より献納される未の御供のことで、
その御供の内容を、絵図もまじえて詳細に書き留められていました。
ここで、京都室町仏光寺の日吉神社がでてくる繋がりですが、
時代は堀河天皇の御代(1087~1107)・平安末期の頃、
比叡山坂本の日吉社の僧兵たちは、山王神輿を担ぎ出して朝廷へ強訴に及んだのです。
担ぎ出した山王神輿は、そのまま室町仏光寺・山王町辺りの森に置き捨てられ、
僧兵たちは帰ってしまいました。
その後、ここに山王社の祠が建てられ、現在まで祀り続けられているのです。
いわゆる、捨山王の一つと伝えられています。
この捨山王は、京都市内にはよく見られ、
祇園社の境内・北東隅に祀られている日吉社もそうですし、
麩屋町通上白山町の白山神社、下白山町の白山宮なども捨山王の一つと呼べるでしょう。
大分脱線してしまいましたが、もう一つの「北嶺諸堂塔之圖」は、
三巻からなっていて、延暦寺・日吉大社境内の諸社殿を写実的に描いたものでした。
毎年、この時期に開催されているとのことで、テーマを変えながら展示が行われます。
世間(学術的にも)に知られていない古文書や絵図資料が、多く見られるのが面白いです。
もう、今から来年が楽しみになってしまいました。
https://zunzun.kyo2.jp/e196820.html
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山王祭・日吉大社
Sun, 18 Apr 2010 19:11:11 +0900
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日吉大社・山王祭2010・宵宮落し
宵宮場(大政所)の四基の神輿(東本宮・牛尾宮・樹下宮・三宮宮)の前での、
小満の口上が、なかなかの聞かせどころ。
そして、破れ獅子舞・綾織りの奉納がされる。
宵宮場(大政所)の四基の神輿(東本宮・牛尾宮・樹下宮・三宮宮)の前で、
山王祭実行委員長が祭文の読み上げを終了するや、
一気に落とされた神輿が駕輿丁に舁き上げられ、約50m先の鼠社まで先を競い合う。
神輿四基は、二宮橋を渡り宵宮道から西本宮を目指す。
西本宮拝殿では西本宮・宇佐宮・白山宮の三社の神輿が四社の着御を待っている。
これで山王上七社の神輿が、今年の山王祭で初めて勢揃いする。
https://zunzun.kyo2.jp/e195495.html
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山王祭・日吉大社
Wed, 14 Apr 2010 12:00:00 +0900
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『日吉山王祭』 山口幸次氏が写真展を開催!
山口幸次さんが、このほど『日吉山王祭』を発刊されたのを記念しまして、
~『日吉山王祭』山口幸次写真展~が開催されることとなりました。
お祭好きはもちろん、湖国近江の山王祭ってどんなお祭なの・・・と思っている方にも、
山王祭の醍醐味を感じていただける写真展になっていると思います。
【会 期】 2010年4月3日(土)~4月19日(月)
時間 9:30~20:00
【会 場】 アルセ平和堂坂本店2階/大津市坂本7丁目24-1(JR比叡山坂本駅下車徒歩5分)
電話 077-578-3111
https://zunzun.kyo2.jp/e192007.html
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山王祭・日吉大社
Thu, 01 Apr 2010 20:44:02 +0900
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日吉大社・山王祭2010 直木(なおき)神事 3月27日
3月27日の朝、
大津市苗鹿(のうか)の那波加荒魂神社(なはかあらみたまじんじゃ)で、”直木神事”が行われた。
定刻は10時となっていたが、30分早く那波加荒魂神社に着いたところ、
地元の方と思われる方がおられた。
お話を聞こうと声を掛けさせていただいたところ、
今から山に行くから一緒に行くか、と言っていただき、同行させていただくことができた。
不思議にいつもながら、こういった幸運によく恵まれるのだ。
後で詳しく書いているが、その声を掛けた方は山口さんといい、
なんと、この3月末に日吉山王祭の本を出されるらしい。
地主さんのお家まで、人が一人通るのがやっとの小道を歩きながら、
実は、昔の北国”海”道(ほっこくかいどう:浜大津から湖西をとおり若狭へ通ずる古道)が、
この道筋だったんだと、話していただけたり、ちょっとの間に興味深い話を沢山伺うことができた。
本当に歴史や祭りに造詣の深い方だと思っていたら、
山王祭の本を出されるほどの方だったとは、詳しいはずである。
また一人、面白い方と出会えて貴重な話を聞くことができたのだ。
非常にラッキーである。
山の地主さんのお家に神事にたずさわる方々が、みんな集合した。
9時45分、大榊にする榊を伐りだしに出発した。
苗鹿の集落を抜けて山へと向かう。地元では、その山を榊山と呼んでいる。
榊は植林ではなく、自生していると言う。
次第に、里から山へ。
今年の榊はすでに選抜されていて、その榊の場所まで山を巡り歩く。
榊の前に、やっと辿り着いた。
直木神事が始まった。
祭壇の上には、伐り出しに使われる鉞(まさかり)と釿(ちょうな)が置かれ、お祓いがされる。
いよいよ、”直木(なおき)”に取り掛かる。
すでに散々、”伐採”とか”伐る”とか、書いてしまった後だが、
実は、神事では、死や切るなど、不吉な意味の言葉や文字を避けて、
よき文字やよき詞に置き換えるのだ。
今回の”切る・伐る”も”直す”という詞に置き換えて、
”木を伐る”神事のことを、直木(なおき)神事と呼んでいる。
榊を山から運び出す。
里近くまで降りてきた。
ここで、今度は釿を使い、伐った元の木口を削る。
きれいに三面で削り整えられている。
山を降りる。
地主さんのお家まで帰ってきた。
ここで、榊に紅白の布を巻きつけ枝を絞り込む。
トラックに載せた榊が、那波加荒魂神社の境内に着いた。
本殿前に榊を据えて、直木神事が無事に終了した。
この夕刻、午後6時30分より、真榊神事が行われる。
今度は、ここ那波加荒魂神社より広芝まで、大榊がお渡りになる。
この日、色々と面白いお話をしていただきながら案内していただいた山口さんが、
日吉山王祭の本を出される。
詳細は以下の通りである。山王祭に興味のある方には、是非手に取っていただきたい一冊である。
■近江の祭礼行事シリーズ第一弾 発売日:2010年03月30日
「日吉山王祭」 山口 幸次(写真・文) 2400円+税
今まで、写真や文章で書かれたことのない、山王祭の全貌が書かれている。
著者の山口氏は、地元・氏子として長く山王祭に関わり、山王祭を見てこられた。
その現場を知っているからこそ書ける内容が満載の本だ。
駕輿丁や氏子により、口伝でのみ伝えられ残ってきた事物や歴史、
また、技術や言葉など、様々な角度から山王祭を知るには必見の資料となろう。
https://zunzun.kyo2.jp/e190452.html
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山王祭・日吉大社
Mon, 29 Mar 2010 08:00:00 +0900
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日吉大社・山王祭2010 3月14日・牛神楽祭の支度中
3月14日、広芝駕輿丁での大松明を見せてもらった後、八王子山に登った。
翌日の15日には牛神楽祭が牛尾宮で執り行われるので、
その準備がされるので、それを見ようと思っての山登り。
いつもは牛尾宮・三宮宮の遥拝所や神輿庫がある、八王子山登り口から登っていくのだが、
今日は”御灯道”から登ってみることにした。
”御灯道”というのは、西本宮と大宮竃殿社(宇佐宮拝殿脇)の間にある急坂の山道で、
3月1日から4月12日までの43日間、神職が毎夕、雨の日も風の日も休むことなく、
八王子山山上の牛尾宮・三宮宮の奥宮両社へ、御灯明を献じるために通い使っている山道だ。
この道は、急ではあるけれど、登り口が社務所からも近く、
山の中腹まで短時間で登りつめることができるので、
毎日登っていくには最適の道筋なのだ。
急な山道は、少し登るとみるみる社殿が小さくなっていく。
眼下に見えるのは、西本宮の本殿の玉垣。
途中で、石の道標を見つけた。
何か文字が刻まれているが、読み取れなかった。
僅かに右肩の部分に、”大宮”の文字が見える。
ますます、道が急になってゆくが、
足場がしっかり確保できるように整備されているので、意外と登りやすい。
そうこうしている内に、参拝道の合流地点までやってきた。
左端下手に上ってきた道が見えている。
合流点に、御灯道と書かれた立て札が建っていた。
本参道からすると、分岐点ということになるか。
小さな石仏に花が生けられていた。
これも、毎日、お花とお水替えを欠かさずされているのか、
枯れることなく美しく咲いている。
ここからは、右手の本参道を登ってゆく。
まだまだ九十九折の山道が続く。
やっと、懸崖造りの奥宮が見えてきた。
重要文化財。信長の比叡山焼き討ちで、この奥宮も焼失したが、秀吉が再建している。
今日は珍しく先客が居られるようだ。
石段に腰を下ろしたご老人と、神職の方たちが登ってくるまで、お話をさせていただいた。
坂本の里に鎮座したまう日吉大社境外百八社の一社の氏子総代をなさっているよし。
この14日は登る日になっているとのことで、お年を聞いたところ、なんと御歳八十うん歳とのこと。
その健脚振りには驚いてしまった。
そんなこんなで20分ほど話していただろうか、ふと見ると神職が荷物をかかえて登ってこられた。
さらに、もうお一方。お疲れ様です。
正面に、デデ~ンと鎮座の金大巌(こがねのおおいわ)。
日が登って岩肌に朝日があたると、金色に輝くことからそう呼ばれるようになったという。
数人見える若者達は、愛知県からやってきたと言っていた。
登りだして、まだかまだかと言っているうちに、奥宮まで登ってしまったらしい。
女の子の足元は、なんとハイヒールだった。
若いというのは凄いもんだ。
まず、牛尾宮から開けられた。
拝殿には神輿が奉安されている。
先日の3月6日に、”神輿上げ神事”で山麓の神輿庫から舁き上げられたのだ。
只今、牛尾宮と三宮宮は、12日の”午の神事”で山を降りるまで、お見合いの真っ最中なのだ。
薄暗い本殿の中は、もちろんだが、電燈などない。
本殿に向かって、左手背後隅に祀られている牛御子社。
電燈などない!といったが、よく見ると右の端にライトが設置されていた・・・。
こちらは、同じく右手背後の隅に祀られている百太夫社。
手際よく埃を払い落とし、きれいになってゆく。
拝殿からは、琵琶湖が一望できる。
こちらは三宮宮の拝殿。
奉安されている神輿が暗闇に静かに鎮座しておられる。
本殿に向かって左手隅に祀られている竉御前社。
これは檻じゃない、御霊舎(みたまや)というのが正しいのだろうか。
掃き掃除のあと、水でモップ掛けをして準備が整った。
お灯明を点けてられる。
この様に、油が切れる翌朝まで点り続けるのだ。
空はまだ明るく昼間の陽気だが、山陰谷筋には、もはや夜の冷え込みが忍び寄ってきている。
さあ、急いで山を降りよう。
下山後、西本宮の前にある行事日程を覗いてみた。
十五日 牛神楽祭
二十七日 直木神事、真榊神事
三十日 おいで神事
いよいよ明日、西本宮の御神霊を宿される大榊が動き出すのだ。
https://zunzun.kyo2.jp/e190019.html
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山王祭・日吉大社
Fri, 26 Mar 2010 22:24:32 +0900
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日吉大社・山王祭2010 広芝駕輿丁大松明
去る3月14日、広芝駕輿丁の大松明が出来上がりつつありました。
駆けつけたとき、すでにこの日の作業は終了し、ブルーシートが掛けられてしたっていましたが、
「撮るんやったらシート開けたろか」と、声をかけてもらいました。
厚かましくも即座に、「はい!お願いします。」と返事をしていました。
その節は、本当にありがとうございました。
ブログに画像を上げる話をしたら、宣伝しといてくれよと、
手松明(てたいまつ)にポスターまでディスプレイしてくれはりました。
もう10日もたったので、大松明三本がは、もう自治会館の建てられいるかな。
今年の神輿割です。
去年の湖信会結成50周年で、
8月お盆の期間に西本宮の神輿が比叡山延暦寺の根本中堂に渡御しましたが、
今年の14日神幸では、西本宮がトラックに乗らずに、
日吉大社から七本柳まで舁いて巡幸するそうです。
これは、昔の山王祭を彷彿とさせるシーンが見られそうですね。
https://zunzun.kyo2.jp/e186917.html
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山王祭・日吉大社
Fri, 26 Mar 2010 12:00:00 +0900
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日吉大社・山王祭2010 桟敷組 神輿上げ
いよいよ、「神輿上げ(おこしあげ)」が明日に迫りました。
先週の鈴縄巻きで準備を整えた牛尾宮と三宮宮の神輿が、
八王子山の山頂直下、奥宮まで舁き上げられます。
しかし、雨が心配です。
さて、「桟敷組」の告知も掲示がされました。
3月21・22日の2日間で組み上げられます。
これは、奥宮石段下の参道を拡げる張り出し舞台が設置されるのです。
同じくして、大政所前の宵宮落し見物用の席も組み上げられます。
この参道の張り出しは、
4月12日夜の「午の神事」で、大勢の駕輿丁の足場を確保するために作られます。
懸崖造の奥宮は、急な斜面に建っているので、石段下が非常に狭い上に、すぐに南へ90度曲がっています。
松明が点されているとはいえ、足場が見えにくい夜間に、大勢の駕輿丁が神輿を舁いて降りてくるにはあまりにも狭すぎるのです。
しかし、今回の「神輿上げ」の時には、まだ設営がされていませんので、
最後の最後、金大巖を仰いで狭い石段下を、一気に舁き上げる姿は、
なかなか、手に汗を握るところなのです。
https://zunzun.kyo2.jp/e184276.html
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山王祭・日吉大社
Sat, 06 Mar 2010 19:38:22 +0900
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日吉大社・山王祭2010 鈴縄巻き
2月28日の朝から、日吉大社で東本宮系の神輿四基の鈴縄巻きが行われた。
先日の記事にも書いた様に、”鈴縄”というのは、
神輿の黒棒(担ぎ棒)と屋根の蕨手(わらびて)を繋ぐ大きな鈴の付いた縄のことで、
”午の神事”や”宵宮落し”で激しく揺さぶられる神輿四基、
すなわち、 【東本宮(二宮)】 【樹下宮】 【牛尾宮(八王子)】 【三宮宮】の鈴縄が、
しっかりと巻き直されるのだ。
朝9時から始まっていたのだが、用事を済ませて駆けつけて10時過ぎには、
美しく巻きなおされてしまった後で、その様子を見ることはできませんでした。
残念!残って焚き火にあたっておられる方に尋ねたら、今年は早よう済んだなぁ、とのことでした。
【牛尾宮(八王子宮)】
七基の神輿の中で、この神輿だけが八角形をしている。
少しでも軽くなるように、台座の周りの錺が外されて神輿上げ・午の神事仕様になっている。
【三宮宮】
今週末の3月7日、神輿上げ神事で先の牛尾宮の神輿と一緒に八王子山の奥宮まで上がる。
4月12日の午の神事に、今度は神さんが乗った神輿が一気に山から駆け下りてくるのだ。
八王子山山麓の神輿庫で、静かに動く時を待つ神輿。
【樹下宮(十禅師)】
樹下宮の神輿は、一年中この拝殿に置かれている。
【東本宮(二宮)】
先の樹下宮とこの東本宮の神輿は、台座の錺が着けられている。
https://zunzun.kyo2.jp/e182712.html
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山王祭・日吉大社
Tue, 02 Mar 2010 01:58:14 +0900
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日吉大社・山王祭2010 広芝にて
21日の日曜、春を思わすようなあたたかさ、広芝の地から琵琶湖を臨んだ。
3月30日には、この場所で"山王祭 おいで神事"が行われる。
新しい力が漲った西本宮のご祭神・大己貴神が降臨され、
大榊に宿って西本宮まで渡御をされるのだ。
西本宮まで渡御された御神霊は、
4月3日になると再び浜大津の天孫神社まで大榊に宿って渡御をされる。
これが大榊神事である。
松明に先導された大榊は、坂本~下阪本の町内を人の手によって渡御し、
下阪本の志津若宮神社前からトラックに載せられて、
これぞ文明の利器で、一気に浜大津のオキ薬局前・彦田神社までワープする。
浜大津では、天孫神社の役員方々が、提灯を手に大榊をお迎えになる。
今度は、その役員の方々の先導で、
途中、旧蛭子町の蛭子神社をご参拝し天孫神社へ入られる。
大榊は、このまま11日間、天孫神社の拝殿に奉安され、静かに時がやってくるのを待つ。
14日、いよいよ大榊が動く。
日吉大社では、例祭で天台座主による五色奉幣が終わり、
その昼過ぎの1時頃、西本宮に大榊は還御する。
大榊を待っていた七基の神輿が、その還御に呼応して一気に動き出す。
この大榊神事は、大己貴神がかつて近江京遷都(天智天皇七年・668)の際、
都鎮護の為に大和三輪山の大神神社から勧請された、
その時の姿を再現したものであるともいわれている。
また、粟津の御供献納祭も、やはり大和からお遷りになられた時、
琵琶湖を渡ってこられたという伝承からの神事がある。
その意味と関係を、さらに調べてみたい。
そうこうして、いろいろと思い巡らせていると、
いよいよ、山王祭近し、といった気持ちが強くなってくる。
さあ、明後日は鈴縄巻きである。
東本宮が八王子山の山頂直下の金大巖に降臨されるのに対して、
西本宮は、天気がいいと琵琶湖対岸はおろか、伊吹連山に手が届く程に眺めが利く、
この広芝の地に降臨される。
ここに、「広芝のこと」と題した、大きな石碑が建っている。
昭和62年の建立だ。
その碑文中に、広芝の語源が書かれていた。
本来は、この地を「広道芝松」と呼んでいたようだ。
よく見ると、「おそらく近世のことと・・・大宮の東の方へ遷し奉ったと言う」と刻まれている。
この表現からすると、近世から昭和62年当時には、直木神事~真榊神事~おいで神事といった、
一連の神事が行われていなかったのではないか。
最近、日吉古式祭として復興したものかも知れない。
また、左端に少し小さな文字で「国宝 権現橋材」という文字が彫られている。
これは、日吉三橋(大宮橋・二宮橋・走井橋)に並ぶべき石橋であったと思われる。
それは、比叡山高校の前の県道に架かる橋であった。
現在はコンクリート橋に架け変わっているが、
日吉東照宮への参拝道にあたるこの道に架かっていたので、権現橋と名付けられていたのだろう。
台風か大水で倒壊したのではないか。
同じ石材を使って、新田義貞の祈願文の碑が、神輿収蔵庫の近くに建っている。
https://zunzun.kyo2.jp/e180577.html
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山王祭・日吉大社
Fri, 26 Feb 2010 22:00:20 +0900
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日吉大社・山王祭2010/鈴縄巻き・神輿上げ・松明造り
「鈴縄巻き」 「神輿上げ」 「松明造り」 それぞれ告知の掲示がされました。
山王祭の準備も着々と進んでいます。
松明造りは、ジンの部分(樹脂が多くてよく燃える部分)がたくさん積まれていました。
もうすこしすると、大松明も姿を現します。
「鈴縄巻き」
”鈴縄”というのは、神輿の黒棒(担ぎ棒)と神輿の屋根を繋ぐ大きな鈴の着いた縄のことで、
”午の神事”や”宵宮落し”で激しく揺さぶられる神輿四基、
すなわち、 【東本宮(二宮)】 【樹下宮】 【八王子(牛尾宮)】 【三宮宮】の鈴縄が、
しっかりと縛り直されます。
「神輿上げ」
八王子山麓の遥拝所・神輿庫に収められている神輿二基を、
八王子山の山上にある牛尾宮・三宮宮の拝殿まで舁き上げます。
駕與丁の面々に加え、
毎年は高校運動部や大津12団ボーイスカウト・カブスカウトのメンバーが入って、
賑やかな神輿上げとなります。
「松明造り」
これは、広芝駕與丁の告知。
八王子山麓の遥拝所・神輿庫 「鈴縄巻き」「神輿上げ」
仮屋は、八王子山麓神輿舎のこと。
この地図に見える山道を、二基の神輿を舁きながら山頂近くの宮まで舁き上がるります。
https://zunzun.kyo2.jp/e178708.html
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山王祭・日吉大社
Tue, 16 Feb 2010 22:25:35 +0900