CATEGORY:森下仁丹看板
2006年12月14日
町名表示板 新烏丸通丸太町下ル
「新烏丸通」といっても、少しも”新”ではなっくて、
江戸時代、宝永5(1708)年3月8日の未明に発生した宝永の大火で焼失した、
烏丸通沿いの民家が移転させられたなごりで、移転以前の旧地にちなんで名付けられたものです。
この一筋東にも、「新椹木町通」という通りがあり、これも同じ理屈からの名称で、
鴨川の東側のエリア・川東にも、同じ”新”の付く通名が沢山存在します。
江戸時代、宝永5(1708)年3月8日の未明に発生した宝永の大火で焼失した、
烏丸通沿いの民家が移転させられたなごりで、移転以前の旧地にちなんで名付けられたものです。
この一筋東にも、「新椹木町通」という通りがあり、これも同じ理屈からの名称で、
鴨川の東側のエリア・川東にも、同じ”新”の付く通名が沢山存在します。
平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」を発見
船はし屋さんで、仁丹町名表示板!
京都まち歩きマップ
復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!
京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」
「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動
船はし屋さんで、仁丹町名表示板!
京都まち歩きマップ
復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!
京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」
「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動
ゆりかもめさんの言われるとおり、
私も同感です。
町名表示板は京の町の中にあってこそ、
すばらしいです。
今年の春に撮影してまだUPしていない看板で、
新烏丸通丸太町西南角の家に付いていた「上京区丸太町通新烏丸西入信富町」の仁丹看板ですが、
その家が最近取り壊されて看板もなくなってしまいました。
今でもどんどん消えていっているのですね。
「上京区丸太町通新烏丸西入信富町」の仁丹看板。
場所は、新烏丸丸太町上るです。
少々場所が違うけど、戻ってきてくれました!!
「上京区丸太町通新烏丸西入信富町」復活ですか!?
どういう経緯なんでしょうか、興味津々ですぅ~。
実は、わたしは、
”信富町”の仁丹さん画像は持っていないんですよ。
僕が撮りだした2006年春の頃には、例の家は健在でしたが、
看板は既に無かったはずです。
丸太町に面した方は、剥げ剥げで生きていましたが。
今日、観てきました。
例の剥げ剥げ看板だったんですね♪
無理やり剥がされたからなのか、
復活してから不埒な輩に剥がしかけられたのか、
若干、三日月反りしてました。
しかし立派な復活振りでした。
末永く元気でいてほしいものです。
ただ、看板の表記住所と現地住所と一致していないのが、やっぱり気になりますが。
"西入"じゃなく"上ル"でないとね。
僕的には、あの新築に付けて欲しかった~
そんなら格好良かったのになぁ。
私が知っている西入信富町は蔵の2階に剥げ剥げになったやつです。写真で比べているんですが、これとはまったく違うシロモノです。そうすると、なぜ今復活!!なんでしょう。
本日、5/15にこの看板が消滅しているのを発見しました。
看板だけが、消滅していたので見たときは「なんで~!!」の気分でした。
その看板の前に、「河原町通夷川上ル指物町」と「夷川通河原町東入指物町」の付いて
いた建物が解体されて、更地になったばかりの現場を発見したばかりでした。
同時に、3枚の消滅看板を発見してどうしようもない気分でした。
ゆりかもめさんもコメントしておられたように、看板の消滅が速すぎます。
どうにか、ならないもんですかねぇ。
先日、コメントしました大津の看板の気になる「急救護身薬」のロゴの看板は「後在家町」でした。見に行ったら消滅していました。
後、「蠟師町」の看板があるのかどうか気がかりです。
もう一週間位前に取り壊されました。私は、銅駝中の出身なので、小さな頃から見てきた町家でしたが、懐かしい景色と共に、また一つ仁丹看板が消えました。
仁丹看板ビフォーアフター記事をあげますのでまた見て下さい。
指物町は、僕が中学の頃から人口が少なく、区民運動会にはよく出場辞退していました。今は1~2軒だけになってるんと違うかなぁ。でも新しいマンションが指物町なら人口増になってるかな。
>「急救護身薬」のロゴの看板は「後在家町」でした。見に行ったら消滅していました。
大津も何とかしないと、無くなってしまいますね。大津も、残さないと、という機運が、ちょっと高まってきているんですが…。