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CATEGORY:森下仁丹看板

2009年03月21日

仁丹町名表示板 丸太町通新烏丸西入信富町

ゆりかもめさんに情報をいただき、早速覗いて見ました。

なるほどなるほど、確かに復活していますが、

ゆりかもめさんが言ってられたように、

すでに取り潰された土蔵(丸太町通新烏丸西入南側)についていた、

ハゲハゲ看板ではないですね。

これは、まったく別物です。

仁丹町名表示板 丸太町通新烏丸西入信富町


この表記住所と現在の設置場所からすると、

現在のレンガ風壁面の建物に建替える前にあったであろう、

丸太町通新烏丸西入北側の町家に設置されていたんでしょう。


因みに、『取り潰された土蔵(丸太町通新烏丸西入南側)のハゲハゲ看板』の記事はこちら

両者ともハゲハゲなので、見比べるのも困難ですが、痛み具合は明らかに別モノですぞ。



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Posted by ずんずん  at 20:42 │Comments(6)森下仁丹看板

COMMENT
同じ表記でも、別の固体であることも多い仁丹看板。
そんな時、判別に役立つのがこの”傷み具合”ですよね。
仁丹看板の指紋もしくはDNA鑑定みたいなものです。
Posted by shimo-chan at 2009年03月22日 10:24
shimo-chanさん

>仁丹看板の指紋もしくはDNA鑑定みたいなものです。
本当に、その領域を感じますね。

今回の剥げ剥げ看板だって、
一般的な仁丹看板では、ちょっとやそっとじゃ剥げない文字なのに、
土蔵に付いていた看板も、この復活看板も、
遠目には判読できない程剥げているでしょ。
これは、つまり剥げ剥げDNAを持った看板達だということじゃないですか。

仁丹看板は完璧な手書きですが、
その書き手は、筆跡から数人は居られただろうと推測できますよね。
その書き手の内のある方の、ある日の墨の調合が、通常と少々違っていた?
そして、それは百年近く経たないとわからないレベルですが、耐候性に劣っていた?
そういう時限爆弾DNAを抱えた、ある意味レア中のレア看板達だと言うことでしょうか。
同じ日に、同じ墨を使って書かれた看板達が、他にもあるはずですから、
その同じ剥げ剥げDNAを持った看板を探すのも、面白そうですね。
Posted by ずんずんずんずん at 2009年03月23日 19:05
どこに書いてよいのか分からないので、DNA関連ということで、ここに書かせてもらいます。

今日、『伏見市』へ探索に行ってきました。
なんだかんだと色んな発見があり、感動の一日でした。

さて、伏見は仁丹とメンソレータムが半々ぐらいの割合でありますよね。

その中で、「西朱雀町」です。
柱の角に、仁丹の西朱雀町とメンソレータムの西朱雀町が垂直に接して取り付けられていました。

先ほど、その写真を見ていて仰天しました。
なんと、この両者、筆跡が同じと判断して間違いなさそうなのです。
同じ製造所で作られたのではないでしょうか。

京都新聞社発行の「京都の名脇役たち」(だったと思う)に、仁丹看板の解説もされていますが、その記事中に、仁丹の本社には仁丹看板を製作した大阪の看板屋さんの写真が残っている、と紹介されていました。
(立ち読みの記憶ですが)

ですから、この手の看板を得意とするメーカーがあって、シェアも結構広かったのかも知れませんね。
Posted by shimo-chan at 2009年05月05日 22:16
shimo-chanさん、ごぶさたしてます。
流石!GW中も、飽くなき探求を継続中ですね。
”伏見市”探索行は、なかなか面白そうですね。
さっそく面白いネタが上がってきましたか。
「仁丹」と「メンソレータム」の筆跡が同じでしたか。
なるほど、興味深い話です。

>同じ製造所で作られたのではないでしょうか。
充分にあり得る話ですよね。

>仁丹看板を製作した大阪の看板屋さんの写真が・・・
看板屋さんに書かせていたんですか。
以前に書き手が数人居たという話を、何かの資料で見た記憶があったんですが、
その看板屋さんの職人さんが何人か居たということだったんですね。
Posted by ずんずんずんずん at 2009年05月06日 00:18
「京の名脇役たち」を改めて見て来ました。

大阪市の「一新堂看板製作所」で大正七年と記されているそうですので、琺瑯看板というわけではないですね。
Posted by shimo-chan at 2009年05月07日 21:22
shimo-chanさん
町名表示が書かれていない無地の仁丹琺瑯看板は、
明らかに工業製品としての匂いがしますが、
その書かれた文字の方は、家内制手工業の雰囲気プンプンですよ。
筆耕といっていいのかはわかりませんが、
書き手として、大正七年以降も「一新堂看板製作所」が仕事をしていた可能性はあります。
残念ながら、そのところの資料は、大阪大空襲で、炎とともに失われたんですね。

京都市内で10数枚確認されている、琺瑯看板になる前の”木製看板”なら、
ほぼ確実に「一新堂看板製作所」さんの手によるものでしょう。
Posted by ずんずん at 2009年05月08日 21:21
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