京都室町仏光寺の日吉神社・拝殿、東本宮・二宮の神紋である葵を組み合せた、葵の紋が見える。
日吉大社・山王祭の駕與丁で作られている「日吉山王研究会」が、
坂本・生源寺 別当大師堂にて、嵯峨井 建先生をお呼びして行われた。
テーマは、『明治以前の山王祭』。
小一時間というあっという間の講義であったが、非常に興味深い内容だった。
それは、一般的に「神仏分離令」と呼ばれている、明治政府によって推し進められた政策によって、
実際に起こった生々しい記録の一端を覗くことができたからである。
明治政府は、明治元年(1868)3月28日、神仏分離令(正確には神仏判然令(はんぜんれい)というらしい)を出し、
それを受けた大津裁判所は、翌29日に日吉社へ布告を通達した。
その内容の主なものは、下記の通りである。
1)神社内からの仏像・仏具の排除
2)寺院から神社や関係するものの排除
3)神号を仏号であらわすことの禁止
日吉社では、この日から2週間ほどの間に、仏像・仏具・経巻を破棄、焼却していった。
境内に建ち並んでいた多くの堂塔も、その政策が進むに従い、取り壊されていった。
その様子は、暴動と行っても過言ではないほどに過激なものであったようだ。
結果、この日吉社における神仏判然令の実例は、全国の第一の事例となった。
現在の日吉大社の境内・坂本一円には、まだ宮寺(みやでら)であった当時の、
僅かながらその痕跡を見ることができる。
ところで、その講義の中でのお話に、山王祭の神事の一つである、
4月13日・京都室町仏光寺の日吉神社(山王宮)が行っている「未の御供」のことが出た。
現在は、この通り、京都室町仏光寺の日吉神社の山王町が、その神事に奉仕しているのだが、
本来は、祇園社・現在の八坂神社が行っていたものであったとのことであった。
祇園社は、本来、延暦寺の京都出張所的な位置づけにあった。
京都室町仏光寺の日吉神社が、捨山王であるとはいえ、なぜ御供を献納するのかが、もう一つピンと来なかった。
しかし、延暦寺の鎮守社である日吉社の祭礼である山王祭に、祇園社から御供を献納するというのなら、うなづける話である。
それが、室町仏光寺の日吉神社に移ったのは、明治の神仏判然令によるものかは、確認が取ることができなかった。
現在、未の御供に使われている長櫃に、昨年の山王祭で、慶応年間の銘が入っていたのを見た記憶がある。
確認の必要があるが、慶応四年(=明治元年)であったか・・・。
そうなると、祇園社(八坂神社)から山王宮(日吉神社)が、
未の御供を引き継いで行うようになった時期を、表しているのかもしれない。
因みに、ウィキペディアで見ると、慶応から明治に改元したのは9月8日である。
さらに、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日まで遡って明治としたことがわかった。
すると、上記で、”明治元年(1868)3月28日”に神仏判然令が強行されたのは、まだ慶応四年だったわけで、
その慶応四年の山王祭は、何とか行われた様だが、すでに仏教色を一掃した後の山王祭であったことになる。
すなわち、八坂神社は未の御供にタッチしていない可能性が出てくる。
まずまず、その様なことで、とても有意義な時間を過ごさせていただくことができた。