『写真集 京の町並み』~田中泰彦編・京を語る会~より。
大正14年2月18日に撮影された、清水産寧坂の様子である。
よ~く見ると、左端に琺瑯製の仁丹看板が写っている。
この一枚の写真は、今まで琺瑯仁丹が、昭和3年の御大典を控えた京都の町に、
急ピッチで設置が進められたとする説を、根底から覆す資料となる。
看板の表記は、「清水二町目」と読み取れるが、
残念ながら、それに続く詳細表記までは判読できない。
想像するに、「下京區 清水二町目 産寧坂通松原上ル」か?
では、琺瑯仁丹が設置されだすのは、大正期のいつ頃だったのだろうか。
ネット上に、
「琺瑯の歴史について」という、面白いサイトを見つけた。
それによると、琺瑯鉄器の生産額が伸びだすのは大正7年頃からで、
大正14年に、大正期における一つのピークを迎えている。
また、琺瑯技術の草創期に、大阪市北区や福島区で琺瑯生産工場が事業を始めていることに、
森下仁丹が、琺瑯看板の設置を大々的に進めたこととの関連性を感じさせる。
歪み修正を試みましたが・・・
「清水二町目 ** ***上ル」と、五文字ほどが書かれていそうです。
二文字目と三文字目の文字間が、微妙に空いています。
”上ル”は、ほぼ間違いないようです。