メンバー全員が揃っての京都仁丹樂會・探索ミーティングが開催されました。
といっても、当てもなく探すのではなく、
去年、メンバーの”でな桜さん”がひょんな切欠でお知り合いになった、
とある酒屋さんを訪ねるミーティングであります。
その酒屋さんは、幕末から製茶業を営んでおられましたが、
明治後期から酒類販売の商いを始められ、この東福寺の地で、長くお商売をなさってこられました。
そのお店に、木製の仁丹町名表示板が一枚保存されていたのです。
朱色の縁取りの木が、一部残っています。
お店のご主人に、その経緯についてお話を伺うことが出来ました。
その顛末たるや、驚きの連続でした。
まさに奇跡の出会いであったかと思います。
ご主人の歴史好き、探求好き、何故何故好奇心がなければ、日の目を見なかったでしょう。
その詳しくは、
「小さな酒屋の日記」~思わぬ発見~ をご参照下さい。
地域に密着した、独自の目線で探求されておられる面白いBlogです。
歴史に詳しい方でも、驚く事実がいっぱいです。
並んで立っている琺瑯看板の発見経緯も、ご主人のBlogに書かれています。
面白いでっせ。
お店の前に出して、撮影させていただきました。
裏側も念のために撮影っと。
これは、杉材が使われているのでしょうか。それとも、松なのでしょうか。
檜は高級なので使わないでしょうし。
木材に詳しい方なら、すぐにわかるのでしょう。
木製仁丹町名表示板の表記フォーマットには、様々なタイプが存在していて、
表記のスタイルが定まっていないことを伺わせるのです。
それは、仁丹町名表示板が、まだまだ試行錯誤の時代であったことを感じさせます。
この表示板の表記は非常にシンプルで力強く、琺瑯仁丹へとつながるデザインを彷彿とさせます。
木製表示板の左下端に、このような文字が書かれていました。
”五十に丸”と見えます。
何かを識別するための文字であることは、間違いないでしょう。
他に現存する木製仁丹町名表示板を、間近かに観る機会があれば、チェックする項目ができました。
木製仁丹町名表示板の歴史や素性を辿る鍵になるやも知れません。
仁丹町名表示板のお話のほかに、こんな看板なども見せていただきました。
「男は黙って サッポロビール」 by 三船敏郎
このCMが流れるまでは、一部のファンだけに知られていたビールだったのですが、
これで、一気にメジャー路線に躍り出た”サッポロビール”だったのです。
この会話の中で、三船敏郎を知らない世代もいるというお話が出て、
今の若い連中は、三船美佳のお父さん、と思っているみたい?
確かにそうだけど、もっと大きいよ、世界の三船だ!
やっぱり、七人の侍の菊千代は鮮烈なイメージが残っているなぁ。
椿三郎、隠し砦の三悪人、蜘蛛巣城、悪い奴ほどよく眠る、数え上げたら切がない。
とにかく、ただのお父さんと違うのだ。すごい人なんだ!
なつかしのビール瓶のオンパレード。
ツバメソースも色々揃ってます。
チビソース瓶でも買えるから、お試しに買ってしまいたくなる、可愛い小瓶たちです。
お土産にいい感じですね。
こんなディスプレイもありました。
とても雰囲気があって、一つ欲しいなぁ、と思いきや、非売品でした。
因みに、この琺瑯仁丹町名表示板は、お店の表の二階に付いているのですが、
そこで疑問が湧いてきませんか。
そうですよね。先に出た木製仁丹町名表示板が”十七丁目”だったのが、
琺瑯では何故か”十六町目”になっている。
これも、こちらのご主人に教えていただくまでは知らなかった歴史上の事実があったのです。
昨年、開業100周年を迎えた京阪電鉄ですが、
この本町通りの西側を沿うように開通したのが、明治43年(1910)4月15日。
その時、この一帯の町域の改編が行われたのだそうです。
この酒屋さんの住所は、明治43年の開通までは本町十七丁目であったのが、
町域再編で十六町目になったということなのです。
このことを、少し調べてみたのですが、なかなか出てこない歴史的事実なのです。
森下仁丹の歴史によると、
全国的に仁丹町名表示板が設置され始めたのが、明治43年となっています。
この京阪の開通が明治43年4月15日。
この木製仁丹町名表示板の住所が、京阪開通以前の旧町域の表記になっているということは、
遅くても、明治43年4月15日以前の設置ということになってくるのです。
しかし、開通日に町域改変の発効日とするものだろうか。
もっと早い段階、つまり、京阪線の建設段階で町域の改変がなされ、
その時点で、新しい町域の発効がなされる方が自然な様にも考えるのだが、どうだろうか。
では、明治43年4月15日に開通を迎えることができた京阪建設工事は、どれくらい期間がかかったのだろうか。
ウィキペディアでは、全路線の青写真が出来上がったのが、明治41年(1908)9月。
ようやく、明治41年(1908)10月より4工区に分割されて建設工事が開始された、となっている。
その建設計画は、大阪市の横槍、淀川沿いの軟弱地盤、用地買収の遅れ、
京都での琵琶湖疏水堤防上への変更など、10数ケ所にわたるルート変更を余儀なくされたらしいのです。
この本町通り沿線では、東福寺の敷地を含んでいたため、用地買収が順調に進まなかったということを、
上野酒店のご主人にも教えていただいた。
その用地買収の結果、町域の改編が発生したことになるので、
木製仁丹町名表示板の設置時期が、明治41年から42年中ということも視野に入ってくることになるのです。
とにかく、この町域の改編時期を調べなくては・・・
木製仁丹町名表示板の設置時期の定説を覆すことになるかもしれません。
うむむ、奥が深いです・・・・