CATEGORY:祠堂を訪ねて
2009年12月13日
立売中之町の應擧地蔵のこと
京都市内には、ガイド書に載ることのない”名もなき祠堂”がたくさんあって、
お町内のご奉仕によって、今も大切に護られています。
その、人知れず何百年と護られ続けてきた祠堂を、
時々ポツリポツリと訪ねながら、その由緒や故事来歴を紹介してゆきたいと思います。
今回は、毎朝通勤の途中に通りかかる地蔵堂です。
場所は、堺町通四条上ルの野村證券ビルの東側面に、埋め込まれるように小堂があります。

以前から気になっていたので、あらためて見てみると、
左の足元に建つ石碑に何やら・・・【應擧地蔵尊】とありました。



ちょっと見にくいですが、
左側に「大正十年八月建之」、右側に「立売中之町 発起人山田政七」と彫られています。

お花とお水が、ちゃんとお供えされていました。
お掃除など、手入れも毎日されているようですね。


こうしてみると、向かって左のお堂の方が、凝った作りになっています。
屋根のきれいな反りに、彫金を施した金具が張られていますし、
破風の部分は、相当細かい彫刻があって、額も手を込んだもののようですね。
石碑の建っている位置からすると、この左側のお堂が"應擧地蔵"にあたるのでしょうか。
この野村證券ビルは、立売中之町と北隣の八百屋町の二ヶ町に跨って建っているので、
應擧地蔵が立売中之町、もう一方の地蔵堂が八百屋町のお地蔵さんなのかもしれません。
左側のお堂の中を覗かせていただきました。
なんと、神社にあるような鏡がありました。

こちらは、四条通堺町東入南側のビルの前にある「圓山應擧宅址」の碑と駒札です。
この”立売中之町”に住まいしていた應擧と、この應擧地蔵尊とのつながりはいかなるものか、
改めて調べてみたいです。



お町内のご奉仕によって、今も大切に護られています。
その、人知れず何百年と護られ続けてきた祠堂を、
時々ポツリポツリと訪ねながら、その由緒や故事来歴を紹介してゆきたいと思います。
今回は、毎朝通勤の途中に通りかかる地蔵堂です。
場所は、堺町通四条上ルの野村證券ビルの東側面に、埋め込まれるように小堂があります。

以前から気になっていたので、あらためて見てみると、
左の足元に建つ石碑に何やら・・・【應擧地蔵尊】とありました。



ちょっと見にくいですが、
左側に「大正十年八月建之」、右側に「立売中之町 発起人山田政七」と彫られています。

お花とお水が、ちゃんとお供えされていました。
お掃除など、手入れも毎日されているようですね。




こうしてみると、向かって左のお堂の方が、凝った作りになっています。
屋根のきれいな反りに、彫金を施した金具が張られていますし、
破風の部分は、相当細かい彫刻があって、額も手を込んだもののようですね。
石碑の建っている位置からすると、この左側のお堂が"應擧地蔵"にあたるのでしょうか。
この野村證券ビルは、立売中之町と北隣の八百屋町の二ヶ町に跨って建っているので、
應擧地蔵が立売中之町、もう一方の地蔵堂が八百屋町のお地蔵さんなのかもしれません。
左側のお堂の中を覗かせていただきました。
なんと、神社にあるような鏡がありました。

こちらは、四条通堺町東入南側のビルの前にある「圓山應擧宅址」の碑と駒札です。
この”立売中之町”に住まいしていた應擧と、この應擧地蔵尊とのつながりはいかなるものか、
改めて調べてみたいです。



