CATEGORY:街
2007年11月19日
琺瑯看板の仲間~電燈笠~

『仁丹看板』を求めて、彷徨える旅人と化して京の町を奔走しておりますがぁ~、
こんな副産物と申しますか、懐かしいもんに出くわすもんですなぁ。
これを見て、おぁ~知ってる知ってる、なんて叫んでる人は、たぶん40~50過ぎ以上でしょう。
ほんと、もうめっきり見なくなりました。
京都市の市章が入った電燈の笠。これも琺瑯びきでしょうね。
昭和の30年代くらいまでの街灯といえば、これが定番でしたよ。
夕暮れになると、四つ角の電信柱(それも木製)には、これがポ~ッと点いていたもんです。

たぶん電信柱じゃなく、家に設置されていたので、今まで生き残ってきたんでしょうね。
木製電信柱って寿命があって、定期的に建て替えられていましたからね。
これからも生き延びて欲しいもんです。
地蔵盆~ご本尊、お出かけ中?
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調べたところ、この市章は明治24年に制定され、また同時にこの年に蹴上の水力発電によって市営の送電事業が始まったようです。
電力の供給は今は関西電力しか考えられませんが、当時の京都は市営と京都電燈なる民間が競合し、協議の結果、京都の北半分が市営、南半分が京都電燈に振り分けられたそうです。
おそらくこの傘は、その区別をする必要から「市営」であることを示しているのではないでしょうか。
ということで、まさか明治時代のものであるのかどうかは全く分かりませんが、いずれ
にせよ、相当古いことに違いないでしょうね。
それにしてもこの地域は「プラッシー」や「いの一番」の看板、万博のシールなどなど、興奮の連続でした。
ちなみに、仁丹看板は22枚ゲット。駆け出しの頃に探索した地域ですが、ローラー作戦までには至っていませんでした。
先日のてくの坊さんの写真展以来、
チョビチョビ活動しております。
ところで、明治の当時、
京都を半分に分けての話は知りませんでした。
私は中学の頃から市電が大好きになり、調べたり撮ったりと、色々やってきましたが、
そのことで、京電(民間)と市電(市営)が競合していたのは知っていました。
例えば伏見辺りに行くと、
ひょっとして京都電燈の古い電燈笠が残っていたりしたらすごいですよね。
これで、南に行く楽しみが出来たです。
>京都を半分に分けての話は知りませんでし>た。
申し訳ございません、供給範囲を協議したのは、正確に言うと大正4年なのだそうです。
市が市街地の北半分、京都電燈が市街地の南半分と郊外を対象としたそうです。
>例えば伏見辺りに行くと、
>ひょっとして京都電燈の古い電燈笠が残
>っていたりしたらすごいですよね。
京都電燈はその後「らんでん」も経営することになりますが、嵐電と京都電燈との社章は同じ菱形のマーク(葛飾柴又の”とらや”とよく似たマーク)ですよね。
一昔前までは、渡月橋北詰めの歩道のマンホールの蓋に残っていたんですよ。
同じようなものが、今も京都駅前の関電ビル前の歩道にありますが、かなり磨り減っていて、原形を知らないと見つけにくいかもしれません。
もしかしたら、京都電燈の蓋はまだどこかにひっそりと使われているかもしれませんが、それにしても、仁丹探しで上を見たり、振り返ったり、そしてさらに足元のマンホールも見るとなると、相当な挙動不審人物に映ってしまうことでしょう。
嵐電は京都電燈が経営していたんですか。
確かに、嵐電の旧マークって、菱形の渦巻きでしたよね。
あれって、電気を表現していたということを聞いた覚えがあります。
それから、マンホールにも残っているんですか。
本当に、マンホールまで見ていたら、前を向いて歩いていられないですね。
無茶苦茶、挙動不審人物です。
でもこれからマンホールも気になってしまいます。ヤバイです!
早とちりをして申し訳ございませんでした。
でも、と言うことは、少なくとも2箇所で残っているということは確実ですね。私のは西陣京極の西方でした。
それにしても、仁丹探しで前後左右をぐるぐると見渡し、電燈探しで上を見上げ、マンホール探しで足元もしげしげと眺める、、、挙動不審、もう完璧ですね。
ところで、京福電鉄は京都と福井を結ぶ予定だったと思われている方もおられるようですが、電力供給会社である京都電燈は、福井でも発電と供給事業を行っていて、その受け皿として経営したのが、福井の京福電鉄、つまりは現在の「えちぜん鉄道」だったのです。
ですから、京都と福井で鉄道事業を行っているので「京福電鉄」だったのです。
それに、また西陣京極とはマニアックな。
私が見つけたのは、智恵光院辺りです。
ところで、京福で思い出したのですが、
昔、滋賀の湖西を江若鉄道というのが走っていましたが、
これは、近江(滋賀)と若狭(福井)を結ぶ計画だったようですね。
現実は、浜大津から近江今津で終わってしまいましたけど。