CATEGORY:森下仁丹看板
2010年06月05日
仁丹町名表示板フリークのTさんとの出会い
最近、京都新聞で仁丹町名表示板を取り上げた記事を目にすることが増えた。
今年の2月20日夕刊「仁丹の『町名表示板』保存を。市内中心部 15年で4割減」や
つい先日、5月26日朝刊の「取材ノートから ~消えゆく仁丹町名表示板 老いの街で放つ存在感~」がそれである。
※この5/26の記事中で、この一節はちょっと違うのではないかと思うのだが。
・・・2階部分に多いのも「盗難防止で1階から移した可能性が高い」・・・
すべて、社会部の樺山聡さんという記者の方が書かれた記事で、この記事をきっかけにして、少しでも仁丹看板の
減少に歯止めが掛かってくれればと思っている。
それはさておき、その記事が縁で、”仁丹ニアン”であるT氏とお会いする機会を得た。
※仁丹ニアン・・・読み:ジンタニアン、意味:仁丹町名表示板を求めて大路小路を彷徨い歩く人、命名:てくの坊さん
人の家の軒下をキョロキョロ伺いながら、何度も行ったり来たりする。非常に善良な一市民であるが、
その特異な行動パターンから不審者と間違われて警察に通報されることがある。
T氏は、なんと平成6年頃から大路小路の彷徨い人となられたそうで、仁丹町名表示板の大大大・・・先輩になるのだ。
その後、平成8年8月頃には、本格的な探索は終了しておられた様なのだが、
最近の新聞記事に触発されて、活動を再開されるとのことだ。
私との会話で盛り上がったことも、T氏をその気にさせてしまったようだ。
仁丹町名表示板を追いかける人はたくさんおられるが、その人それぞれに仁丹看板へのアプローチは異なっている。
同氏は、京都の懐かしい町並みがドンドン消えていくのを感じ、少しでもその風景を記録に残しておきたいと、
カメラを持って京都の町を歩き出したのが最初だった。
そうしている内に、仁丹町名表示板がその画像の中に頻繁に登場していることに気付き、
仁丹看板にカメラを向けるようになった。
だから、仁丹看板を撮影する時には、必ず看板の付いている町家やその町並みも記録しておられるのだという。
その仁丹看板との付き合い方は、私と非常によく似ていて、ことさらに会話が盛り上がったのかもしれない。
この木製仁丹看板は、氏が譲り受けて保管されているものだ。
氏の名誉の為にまず書いておくが、氏はこの手の看板のコレクターでもなく、
また看板を売買してどうこうするという方では決して無い。
当時は仁丹看板には目を向ける人もなく、朽ちるものはそのまま朽ち果て廃棄されていた。
この看板も同じ道をたどる運命であったが、この看板の母屋の方から看板の身柄を委ねられたのである。
看板の状態を見ると、木製看板の仕様である縁取り枠は既になくなっている。
さらに、上部に穴を開けて紐が付けられている。
当時、おそらく母屋の柱からは外されていて、門口あたりにでも吊るされていたのだろう。
看板の命も風前の灯だったと思われる。
手書きであった、筆の痕跡がものの見事に残っている。
今まで木製仁丹看板の裏側を見たことが無かったが、この機会に見ることが出来た。
木材に詳しくないのではっきりしないが、杉か松だろうか。
大きな節が入っていたりして端材が使われているようだ。
しかし、全国で数万枚を調達したであろうとするならば、
間伐材などの安価な材から、どんな部分も捨てることなく、できるだけ効率のよい寸法で多くの板を取ったと考えられる。
この大きな節はそれを物語っている。今回、正確な寸法も知ることができた。
つまり、ヨコ150mm×タテ880mmで、T氏の調べでは、このサイズが製材する時に一番無駄なく取れる寸法らしい。
設置される時は、一辺に幅15mm程の縁取りが付くので、だいたいヨコ180mm×タテ910mmのサイズとなる。
因みに、琺瑯製の仁丹看板はヨコ145mm×タテ910mm。
そこで思い出したのが、以前にコメントで書いたことのある、とある小路に現存する木製仁丹看板とおぼしき確認事例だ。
それは、ピッタリと琺瑯仁丹を上から貼り重ねられた為、下敷きの板が木製看板とは断定できないものだった。
しかし、私の見る限り、ヨコ幅のはみ出した縁取りから判断して、ほぼ木製仁丹看板であろうと思われた。
また、ゆりかもめさんも間違いないのではと見解をいただいた。
ただ、正確なサイズが分からない以上、重ねた場合のはみ出し方がどんな具合になるかがわからなかった。
それが、今回の寸法判明で、あの下敷きの木製看板は、ほぼ間違いなく木製仁丹であると判断できたのだ。
今回のT氏との出会いは、新たな角度から仁丹町名表示板を見るきっかけになりそうだ。
今後、仁丹町名表示板のスタイルについても考察してみたいと思う。
今年の2月20日夕刊「仁丹の『町名表示板』保存を。市内中心部 15年で4割減」や
つい先日、5月26日朝刊の「取材ノートから ~消えゆく仁丹町名表示板 老いの街で放つ存在感~」がそれである。
※この5/26の記事中で、この一節はちょっと違うのではないかと思うのだが。
・・・2階部分に多いのも「盗難防止で1階から移した可能性が高い」・・・
すべて、社会部の樺山聡さんという記者の方が書かれた記事で、この記事をきっかけにして、少しでも仁丹看板の
減少に歯止めが掛かってくれればと思っている。
それはさておき、その記事が縁で、”仁丹ニアン”であるT氏とお会いする機会を得た。
※仁丹ニアン・・・読み:ジンタニアン、意味:仁丹町名表示板を求めて大路小路を彷徨い歩く人、命名:てくの坊さん
人の家の軒下をキョロキョロ伺いながら、何度も行ったり来たりする。非常に善良な一市民であるが、
その特異な行動パターンから不審者と間違われて警察に通報されることがある。
T氏は、なんと平成6年頃から大路小路の彷徨い人となられたそうで、仁丹町名表示板の大大大・・・先輩になるのだ。
その後、平成8年8月頃には、本格的な探索は終了しておられた様なのだが、
最近の新聞記事に触発されて、活動を再開されるとのことだ。
私との会話で盛り上がったことも、T氏をその気にさせてしまったようだ。
仁丹町名表示板を追いかける人はたくさんおられるが、その人それぞれに仁丹看板へのアプローチは異なっている。
同氏は、京都の懐かしい町並みがドンドン消えていくのを感じ、少しでもその風景を記録に残しておきたいと、
カメラを持って京都の町を歩き出したのが最初だった。
そうしている内に、仁丹町名表示板がその画像の中に頻繁に登場していることに気付き、
仁丹看板にカメラを向けるようになった。
だから、仁丹看板を撮影する時には、必ず看板の付いている町家やその町並みも記録しておられるのだという。
その仁丹看板との付き合い方は、私と非常によく似ていて、ことさらに会話が盛り上がったのかもしれない。
この木製仁丹看板は、氏が譲り受けて保管されているものだ。
氏の名誉の為にまず書いておくが、氏はこの手の看板のコレクターでもなく、
また看板を売買してどうこうするという方では決して無い。
当時は仁丹看板には目を向ける人もなく、朽ちるものはそのまま朽ち果て廃棄されていた。
この看板も同じ道をたどる運命であったが、この看板の母屋の方から看板の身柄を委ねられたのである。
看板の状態を見ると、木製看板の仕様である縁取り枠は既になくなっている。
さらに、上部に穴を開けて紐が付けられている。
当時、おそらく母屋の柱からは外されていて、門口あたりにでも吊るされていたのだろう。
看板の命も風前の灯だったと思われる。
手書きであった、筆の痕跡がものの見事に残っている。
今まで木製仁丹看板の裏側を見たことが無かったが、この機会に見ることが出来た。
木材に詳しくないのではっきりしないが、杉か松だろうか。
大きな節が入っていたりして端材が使われているようだ。
しかし、全国で数万枚を調達したであろうとするならば、
間伐材などの安価な材から、どんな部分も捨てることなく、できるだけ効率のよい寸法で多くの板を取ったと考えられる。
この大きな節はそれを物語っている。今回、正確な寸法も知ることができた。
つまり、ヨコ150mm×タテ880mmで、T氏の調べでは、このサイズが製材する時に一番無駄なく取れる寸法らしい。
設置される時は、一辺に幅15mm程の縁取りが付くので、だいたいヨコ180mm×タテ910mmのサイズとなる。
因みに、琺瑯製の仁丹看板はヨコ145mm×タテ910mm。
そこで思い出したのが、以前にコメントで書いたことのある、とある小路に現存する木製仁丹看板とおぼしき確認事例だ。
それは、ピッタリと琺瑯仁丹を上から貼り重ねられた為、下敷きの板が木製看板とは断定できないものだった。
しかし、私の見る限り、ヨコ幅のはみ出した縁取りから判断して、ほぼ木製仁丹看板であろうと思われた。
また、ゆりかもめさんも間違いないのではと見解をいただいた。
ただ、正確なサイズが分からない以上、重ねた場合のはみ出し方がどんな具合になるかがわからなかった。
それが、今回の寸法判明で、あの下敷きの木製看板は、ほぼ間違いなく木製仁丹であると判断できたのだ。
今回のT氏との出会いは、新たな角度から仁丹町名表示板を見るきっかけになりそうだ。
今後、仁丹町名表示板のスタイルについても考察してみたいと思う。
平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」を発見
船はし屋さんで、仁丹町名表示板!
京都まち歩きマップ
復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!
京都仁丹樂會ミーティング・仁丹木製表示板「本町十七丁目」
「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動
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で,関連付けてここで2つの法則を。
その1つは,まずは町名表示の看板はそう易々とは捨てられないということです。
私たちが仁丹探して彷徨っているとき,更地になったところに町名看板がそっと立て掛けられていたり,電柱に結ばれたりしているシーンを頻繁に見かけますよね。古い金属のものでも,新しいプラスチックのものです。
それらを見るにつけ,取り付ける場所がなくなったからといって,そう簡単に捨ててはいけないという気持ちが働くのではないでしょうか?
町内の暖簾(アイデンティティー),愛着,公共性,敬意といったところでしょうか。それが仁丹ともなると生まれる前からあるのですから,もう恐れ多いという域に達するのでは。
今回のお話のように捨てきれずに家屋内に保管されている”埋蔵仁丹”もいっぱいあるものと推測しています。現にそのような2人目の同僚を発見し,写真撮影を依頼しているところです。建て替えする前の家に付いていたのだそうです。
もうひとつの法則は重ね貼りです。
木製仁丹に琺瑯仁丹を重ねて貼るケースがずんずんさんより報告されましたが,あれも一般的な心理なのかもしれません。
プラスチックものが2枚重ねて貼ってあるケースなど,重ね貼りはしばしば見受けられます。これは,今あるのにまた貼ってくれと依頼された。でも,場所は今のとこしかないし,それにあそこが最適やしといったところでしょうか。正直にべたべた貼らんでもええやん,というような気持ちが働くのではないでしょうか。
以上2つは,地域性を持たない一般的な法則かな?と考えるに至っています。
御返事遅くなりごめんなさいです。
> その1つは,まずは町名表示の看板はそう易々とは捨てられないということです。
山科のT氏が言っておられましたが、町内からの預かりものの様に考えておられるお年寄りも結構おられたとのことでした。
やはり、仁丹看板は歴史が古く京都の町の一部となっていることや、住所を表示しているという公共性の高さが、そういった考え方を浸透させることになったのかもしれませんね。
> もうひとつの法則は重ね貼りです。
> でも,場所は今のとこしかないし,それにあそこが最適やしといったところでしょうか。
そうですよね。
やはり、限られた場所に複数の看板を貼ろうとした結果ですね。
住所表記看板としての見やすさと、広告看板としての訴求力も期待できる位置というのは、意外に少ないということですね。
そう考えると、木製仁丹が剥がされて、琺瑯仁丹に貼りかえられた、というのが当然の成り行きのように考えられますね。
今まで、木製から琺瑯に変わっていく時、手間になる作業として、木製をわざわざ剥がしていたのか、という疑問があったのですが、限られた場所に貼っていったということは、既にその場所には同社・木製仁丹の看板が貼られていて、であるから剥がさざるを得ないということですよね。
これは、清涼飲料水の自販機の場所取りみたいなものですよ。自社の自販機を新型に更新するのと同じです。
いままで、もやもや考えていた点が、shimo-chanさんのコメントから答えを導き出せたような感じです。
その場所取りシェアーは仁丹が圧倒的だったので、
「正面通東中筋西入」の仁丹看板の上には、ロータリークラブだったかの看板が重ね貼りされてしまっていますよね。
明らかな表示間違いの看板であれば、上からの重ね貼りの致し方なしとも考えられますが、あれはルール違反ですね。
その状態を見て、T氏は看板の施主に対し抗議されたそうです。すごいです。