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CATEGORY:森下仁丹看板

2010年12月10日

仁丹町名表示板に関係ありそうなシンポジウム。

明日の12月11日、岡崎のみやこメッセで、

「京都の街の景観を考える」と題して、シンポジウムが開催される。

テーマは”京都の屋外広告物”。

報告に「京都市の屋外広告物行政の現状」、研究成果発表に「京都にふさわしい屋外広告物の色彩」、

パネルディスカッションでは「京都にふさわしい屋外広告物について」といったような内容で、

まさに、『仁丹町名表示板』と関係の深いことが意見交換されるようだ。

こういった場で、仁丹町名表示板の存在をあらためて見つめ直してもらえる様に、一石を投じたい思いであるのだが、

残念なことに、出席できないのである。



このシンポジウムだが、「街の色研究会・京都」という組織が主催のようだ。

サイトを拝見したところ、~京都の町の景観について色彩という側面から、調査、研究する会~ とのこと。

非常に興味深い活動をされているようだ。


◆街の色研究会・京都  http://www.machinoiro-kyoto.com
 〒605-0981 京都市東山区本町15丁目784 三竹園美術文庫内
仁丹町名表示板に関係ありそうなシンポジウム。






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Posted by ずんずん  at 20:37 │Comments(30)森下仁丹看板

COMMENT
なかなか、面白い催しがあるようですね

わたしが、京都の屋外広告や景観などというときに
すごく「行政のおざなりな姿勢」が見えます
京都ホテルが出来る時の景観論争は、それこそ市民の関心を
一気に集めましたが、その後の景観に対する条例が出来ても
京都の大資本の企業が出資や寄付をした建物には
条例の例外を意図もたやすく認めてしまう

こんなザルな条例を一般に市民に押しつけて
何食わぬ顔をしてるのが、気に食わないんですね~
京都は、何でメシを食ってるのか?
ということをハッキリと自覚しなければいけません

ウチは、西陣の組紐職人の家系に育ちましたが
後継者育成が出来ないほどの産業の疲弊があり
それを陳情しても聞いてもらえなかった
それが、観光政策の一貫で、伝統産業の掘り起こしって
20年間(つまりひと世代)ほったらかしにして
お金になるからと、ようやく声をかけて
寝てるひとを起こしに来るという厚かましさ・・・

だから、伝統産業の一部は後継者が育たないし
その伝統産業が終わってしまうのです

本当に「京都」というものを考える時
「ゼニ中心で考えている行政のありかた」には
観光都市として今後生きていくのは難しいという
限界点をさらけ出してるようにしか思えません

胡坐をかきつづける姿勢というのを改めて
考え直すきっかけになればいいと思います
厳しいことを書きましたが、京都を思えばこその
意見の1つやと思ってます
他に、いろんな御意見はあると思いますが・・・
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月11日 22:08
京神たかちゃん本舗さん、貴重な意見ありがとうございます。
京都ホテルの景観論争は、思い出しますね。
その当時、私のほとんど地元でしたから、よく覚えています。
京都は、観光資源に恵まれていますが、その蓄積された資源は、千年以上の歴史が蓄えたもんですからね。
その先人達の築いてくれたものを、自分の業績のごとく勘違いしてはあかんのやと思います。
京神たかちゃん本舗さんが言われる”胡坐をかきつづける”という点、10年前に大津に引っ越してから、よく見えてきました。
大津は、文化大都市京都のすぐ隣にあって、非常に影が薄いですが、近江&大津の歴史文化の深さに驚きました。京都との注目度の違いには、天地の差がありますが、大津の人たちは、コツコツ真面目に努力を継続してはります。
やはり、京都市はもちろん、京都のみんなが、奢らずに真摯に、その資源を活かし伸ばすことに努めていかなければならんと思います。
評価は、自分ではなく、周りがしてくれるもんですが、それには目もくれずに努力することやと思います。
Posted by ずんずん at 2010年12月13日 22:19
わたしが、町名看板に興味を持った理由の1つに・・・

フリーカメラマンの仕事をさせていただいてて
京都に関する情報誌の撮影や取材をさせていただいてて
「地元に生活している人たちや地域をないがしろにしてる」
という思いが強くなったのです

わたしは、萬亀楼の真ん前で生まれ育ち
いまの女将さ座敷を走り回ったほどですし
今も西陣の千本通りの近くに住んでますが
昭和30年代の「せんぶら」の話を聞かせてもらうと
こころときめくものです

しかし、観光客の方が歩いているなんて見たことがないのです
通りがないように書かれている情報誌が多いのも事実
そんな情報誌を片手に観光される方々に
京都の奥深さを知ってもらうなんて不可能に近いです
情報誌に京都の通り名が書いてあれば良い方で
二条城によくウォーキングやジョグに行きますが
北側の竹屋町通りや西側の美福通りには観光客や
修学旅行客が歩いているのを、最近まで見かけなかったのです
つまり「京都の人たちが生活しているところには触れない」
という情報誌独特の特性があって
観光地と生活の場というのがハッキリと恣意的に色分けを
されているのです

そのことに、すごく違和感を感じて取材をしてきましたが
そんな違和感を覚えたまま取材や撮影も出来ない
ということで、お仕事が来てもお断りしています

情報誌の出帆元の大半は、東京や大阪資本の出版社で
カメラマンやライターが京都の人であればまだいいのですが
それすら、ままならないこともあります

そういう仕事の中で、観光客の方が決して興味を示さない
「町名看板」を撮ることで、別の角度からの京都を
示したいと思ったからなんです

通り名や通りすらガイドブックに正確に記されない状況で
どうやって、本当の観光資源を掘り起こしていくのか?
「行政の思いつきとお金になること」にしか
注目されていかないのであれば、ますます地元民が切り離されて
「京都」の全体像がボヤけていくように思います

景観論争もそう、観光資源や屋外広告の件もそう
「最初の掛け声だけは張り切って」いるのですが
すぐに例外を認めてしまって形骸化するという行政
ホンマに一貫性がないので、京都の街並みもボロボロに
なっていってると感じざるを得ません
奈良を真似ろとはいいませんが、厳しい建築基準や街並みの保護の
要件を課していかなければ、張りぼての街が出来てしまいます
そんな危機感を覚えている、今日この頃です

長々と書いて、申し訳ありません
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月13日 23:07
京神たかちゃん本舗さん、すぐにコメントいただいていたんですね。
遅くなり失礼しました。
長くてもいいですよ。思いっきり書いて下さいね。

実は、わたし、京都ホテルが超地元と書きましたが、
高校は、二条城の隣りのS校でした。
それから、カメラを生業にされておられる方を前に恥ずかしいのですが、三年間写真部でした。
だから、竹屋町通を自転車で通学していました。
あそこは、栃の木の街路樹が珍しいですね。
秋になると、毎年、栗大の栃の実がたくさん落ちていたのを思い出します。
数回、市電で通ったこともありました。丸太町智恵光院・春陽堂の本社前で下車して、あとは徒歩で5~6分。

ところで、観光客の方々の活動範囲のことですが、
確かに、二条城の堀川側を除けば、観光客の姿はほとんどないですね。
ちょっと前に聴いた話では、二条城の出入り口をもう一ヶ所作って、
堀川通だけの人の流れに変化を起そうという試みが考えられているようです。
いつに実現するのかまでは知らないのですが、面白い試みかと思います。
出口は、押小路側だった様な記憶がチラホラ。

そうなってくると、こんなコースも辿れるわけですね。
二条城から出て、神泉苑を北から入って恵方社にお参りして、弁天さんの屋根の鯰の瓦を見て一笑いした後は、
例の新シ町通を下がって、三条会商店街の中国料理桃宝園で食事をし、店のオッチャンにおもしろいとこないかと聞き、
本屋の大野文省堂で、村田茂雄著『わがまち ― 本能・油小路界隈』を買い求め、
三条御供社にお参りした後、御供社前のケーキとあっくんでお茶をして、
ご主人と奥さんに祇園祭の神輿の話をしてもらい、
次に三条台若中会所前を通って武信稲荷でおみくじ引いて、大吉や凶やと大騒ぎし、
その後は、近代医学発祥の地・六角獄舎跡の碑を見てから、
ちょっと足を延ばして、元祗園梛神社で御供石を眺め、たらたらと壬生寺まで歩きましょうか。
こんなんが、わたしは好きなんです。

観光で京都に訪れた人たちに、もっと生の京都を知ってもらうためのガイドがあってもいいですね。
生の京都というのは、やっぱり人との交流があってこそでしょうね。
そういったことが、垣間見れるようなものができたらいいですね。
とても商業ベースには乗らないものになってしまうでしょうが、すごく面白いでしょうね。
興味の赴くままに、深く深く入って行ける、道しるべになること間違いないでしょう。

大手出版社のガイド書や、京都市をはじめ、寺社仏閣・商店街・地域活性化などの活動団体など、
各方面が出している多くのガイドマップはありますが、結局、スタートとゴールだけしか書かれていなくて、
間がないんですね。答えまで書いてくれる必要はないんですが、それだけになっていますね。
あなたは、ここに行って何を見つけるのか、何に感動するのか、それはあなた次第、あなたの興味の赴くまま・・・、これです。

今、京都市歴史資料館(寺町通丸太町上ル)で、竹村俊則さんの原画展が開催されています。
竹村さんは、『新撰京都名所圖會』や『昭和京都名所圖會』の名著を世に送り出された方で、
各名所旧跡・寺社仏閣・施設などの俯瞰図が、すべて写真ではなく著者の手書きの挿絵である点が素晴らしく、
昔に小遣いをはたいて買い求めて、いまでも事あるごとに引っ張り出しては、読みふけっています。
田中緑紅さんの田中緑紅叢書54輯も、ちょっと古いですが、素晴らしい本です。
小冊子ながら、地元のささやかな営みが、とてもやさしい文章表現で書かれています。
そういった書籍たちの現代版を、まとめることができたら面白いでしょう。
その糸口に、仁丹町名表示板を辿る旅があるのですね。
また、京都仁丹樂會のメンバーと会うのが楽しみになってきました。


京神たかちゃん本舗さん、ぜひ「町名看板」を撮り続けて下さい。
そして、別の角度からの京都を浮き上がらせて下さい。
大手のすることには、確かに違和感を感じると思いますが、
その業界を知る方だからこそ、踏みとどまってメッセージ出し続けていくというのも、
一つの方法かもしれません。
また、面白い話を聞かせて下さい。
メッセージをお待ちしています。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月16日 22:32
ずんずんさん、ご無沙汰しています。窓からお猿です。
久しぶりにページを覗いたら、ずんずんさんが二条堀端の府立S高校ご出身だとわかりました。
実は私もS高出身です。といっても私の方がかなり先輩かと思いますが。
旧聚楽学区・大宮下長者町で生まれ育ちましたので、高校までは主に自転車、時々は徒歩で通っていました。
また「京神たかちゃん本舗」さんが萬亀楼の近くのご出身ということは、これも同じテリトリーですね。いろいろなところでご縁があるものですね。
私は猪熊下長者町下るにあった銭湯(名前はいまちょっと思い出せません)によく通っていました。
実は、ずんずんさんたちに読んでいただいた「戦争のなかの京都」を出す10年ほど前に、「聚楽第・梅雨の井物語」(阿吽社)という本を出しています。この本は私が生まれ育った地が豊臣秀吉が築いた聚楽第の跡地(私の町内は「東堀町」でしたが実際聚楽第の東堀跡です)だったことから、聚楽第の復元研究史や旧聚楽学区の歴史、聚楽第の遺構といわれてきた「梅雨の井」についてのつたない研究をまとめたものです。もし興味をもたれたら、読んでいただければ嬉しいです。
別項の記事で、京都仁丹樂會の立ちあげを知りました。
こういう活動は、京都の市民レベルの文化活動に幅と深みを作っていくと思うので、大いに期待しています。
がんばってください!
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月22日 22:15
窓からお猿さん、はじめまして!

超地元の話が出て来てビックリしています
大宮下長者町の辺りも、ずいぶん変わりました
「梅雨の井」のことも驚きです

猪熊下長者町の東北角にあった銭湯は
「蛭子湯(えびすゆ)」です
わたしも、高校生になるまでは日々通ってました
平成の初めに閉じられて駐車場になってます
猪熊上長者町の「梅の湯」さんも閉じられましたし
近くで残ってるのは、松屋町上長者町の「長者湯」さん
ぐらいだと思います
「長者湯」さんは映画のロケなどで使われているようで
活気のある銭湯さんですね

わたしは、N中学の出身ですから、S高校の北隣でした
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月24日 13:11
京神たかちゃん本舗さん

窓からお猿です。よろしくお願いします。
そうそう、猪熊下長者町下がるの銭湯は「蛭子湯」でした。
私は主に長者湯に通っていましたが、時々「梅の湯」や「蛭子湯」それから出水松屋町西にあった「??湯」(これも名前が思い出せない)に行くのが楽しみでした。蛭子湯にはたしか電気風呂(ビリビリくるやつ)がありましたね?(梅の湯か?)
子どもの頃は銭湯が遊び場で、友達と2時間ぐらい出たり入ったりしていました。あるとき、のぼせてしまって脱衣所でぶっ倒れ、親に迎えにきてもらったこともあります。
遠い昔の話ですが。
長者湯は健在なのですね。昔はたしか「白山湯の華温泉」と銘打っていましたが、薬湯に入っていたのはバスクリンだったように思います。
まだ旧知の人たちが東堀町におられるのでたまに行くのですが、30年ほど暮らした地なので、行けばやはり自分はここの人間だと思います。ふるさとは変わらずにいてほしいですが、それは身勝手な願いですね。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月24日 13:38
窓からお猿さん、ご無沙汰しております。
なんと!先輩だったんですね。
わたしはS53年3月卒です。
保健体育の山チビ先生や、ほとけの市原先生など、名物先生がたくさん居られました。
わたしの学区がS校になったのは、数十年ぶりだったらしく、合格発表の日、親父と一緒に学校を見に行った覚えがあります。
毎年、府立のO校か、市立のH校の交互でローテーションしていましたから、
去年がH校だったから、ぼくらはO校だとばかり思っていたところに、
不意打ちを食らわされたというのが、当時の印象でした。
でも、今も交流のある友人に出会えたということは、S校で良かったです。

ところで、「聚楽第・梅雨の井」のお話が出ましたが、いま空き地になって荒廃が進んでいます。
何年か経ったら、梅雨の井の位置すら、わからなくなってしまうかもしれないですね。
風前の灯火といった感じです。
教えていただいた「聚楽第・梅雨の井物語」、ぜひ読ませていただこうと思います。
仁丹町名表示板に関しては、また情報ありましたら教えて下さい。
今後とも、宜しくお願い致します。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月24日 13:49
ずんずんさん

山チビ先生とか市原先生とか、懐かしい名前ですね。
私が体育を習ったのは須貝さんというこれも名物教師でした。
ずんずんさんは写真部だったそうですが、私は地歴部でした。顧問だったK先生は、80歳をはるかに越えておられますが、今でもお元気で、2~3年前にピースボートで世界一周されました。
ずんずんさんもS高で仲間がたくさんできたとのことですが、私たちの学年も仲が良くて、5年に一度ぐらい200人ぐらいが集まる学年同窓会が続いています。
まあ、あまりローカルな話題はこれぐらいにして、「梅雨の井」の現状は私も憂えています。一時は地上げ反対運動のシンボルとして梅雨の井保存が叫ばれたりもしたのですが、何せ近隣住民の高齢化が進んでいるので・・・。
それと、梅雨の井は厳密にいうと聚楽第の遺構などではなくて、庶民の共同伝承の遺物なのですね。だから文化財として保存する方策がなかなか難しいと思います。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月24日 20:44
「梅雨の井」のことですが・・・

一時期、地上げ屋が入って騒動にもなり
それがテレビのニュースにも取り上げられて
いい意味での注目を集めて行きそうかな・・・
と、思っていたのですが、窓からお猿さんのおっしゃる
ように、あの辺りは荒れ果ててしまって
「梅雨の井」の遺構も草が生え放題になってます
それと、住民の方々の高齢化というのも深刻です

保存に向けての運動も、年々鎮静化してしまってるようで
淋しい限りですが・・・
「文化財」としての保存は、かなり難しいかと思われます
それ以上に「梅雨の井」周辺の住民の方々が
立ち退くことになるという憂き目には遭われないようにする
という方策も必要かと思われます

これは、上京区などの中心部の高齢化という深刻な問題にも
リンクしていると思いますが・・・
お話に割り込んですみません
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月24日 21:36
割り込みなんてとんでもないです。
梅雨の井の話ならいくらでもしたいです。
私の生家はあそこから徒歩200歩ぐらいのところにあり、小さい頃は梅雨の井の周辺(「八雲神社」というお宮さん―いまは空き地になって荒れている一画や、「お旅」と呼ばれていた豊国神社のお旅所跡―今はマンションが建っています―など)は毎日暗くなるまで遊んでいた場所です。
そのあたりの今の荒廃ぶりには心が痛みます。
おっしゃる通り、上京区や市内中心部の住民高齢化は深刻な問題ですね。都心部に近いところでは旧住民と新住民の交流が割合うまくいっているところもあるようですが、ちょっと都心から離れると新住民というのも一時居住という感じが強くなるので・・・。
私の生家のあたりも10年後にはどうなるのでしょうね。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月24日 22:19
窓からお猿さん
京神たかちゃん本舗さん

私は、見た目だけからの印象で「梅雨の井」のことを書いたのですが、
お二人の証言のお陰で、直面している現実を垣間見ることができました。
あの空き地は、もともと町家が建っていたんですよね。
それが地上げで、あんな歯抜けの空間ができてしまったという訳ですか。
もしできることなら、きれいに整えて、芝生でも貼ったりして、壺庭のような公園ができれば、
周りのお年寄りの憩いの場にでもできそうなのですが。
権利がからんで難しいでしょうね。
あの現状のままでは、近づくのも疎ましくなるような荒れ方です。
あの荒れた景色を前にしての生活は、その眺めに影響されて、
心がすさんで行くのではないかと気がかりです。
暖かい日なんかに、ちょっと外に出てみようかと言う気持ちには、なれないですからね。

話しは変わりますが、高齢化のことで思い出したことがあります。
5年前の国勢調査のデータだったと思うのですが、
京都市内の行政区で65歳以上の高齢者の構成比がダントツに高かったのが東山区で27%強。
2位以下は上京区など20%位で続いていた様に記憶しています。
東山も上京も、細くて細かいロウジや図子が多いところです。
本来は、人が肩を寄せ合って、助け合いながら暮らしていた町がありましたが、
空き家が増えていくと、その町並みが、逆に孤立を促進させてしまう恐れがありますね。
誰の眼も届かないロウジの奥で、ポツンと一人で暮らすお年寄りが居るといったケースです。
お年寄りでも、お隣りや地域との交流ができていれば、全然大丈夫なのですが、
独居で、外部との交流から取り残されてしまうと、お年寄りは命取りになりかねないです。
やっぱり、人が元気になるような町づくりが必要ですね。

あっ、それから割り込み大歓迎ですよ、京神たかちゃん本舗さん。
お気遣いなく。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月24日 23:08
窓からお猿さん

> 小さい頃は梅雨の井の周辺(「八雲神社」というお宮さん―いまは空き地になって荒れている一画や、「お旅」と呼ばれていた豊国神社のお旅所跡―今はマンションが建っています―など)は毎日暗くなるまで遊んでいた場所です。

非常に貴重なお話が伺えました。ありがとうございます。
このblog:京都ずんずんでも時々記事アップしている様に、
私は、京都市内に点在する名もなき祠堂を訪ねたりもしていまして、
とても興味深いお話ですね。
八雲神社は、あの空き地の一画に最近まで祀られていたんですね。
それから、近くのマンション地は、”お旅”と呼ばれていたということですね。
そのお旅の地は、今のどのアタリになるのでしょうか。
教えていただけないでしょうか。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月24日 23:23
ずんずんさん

いま「荒れ地」になっている梅雨の井の東側一帯のほとんどが元八雲神社の境内地でした。八雲神社が祀られ、廃絶していった歴史はかなりよくわかっています。前にご紹介した拙著に記しています。今でもアマゾンで買えると思いますし、残部がありますのでご住所などをお知らせいただければお送りしますよ。
「お旅」は大宮通りから松屋町通りに抜ける路地(梅雨の井の南側を通る)から、下長者町までが南北幅、東西の幅も20メートルぐらい
あった結構広い一画でした。いまデトムワンというマンションが建っています。遠く離れた豊国神社のお旅所がここにつくられた経緯もわかっています。これについても拙著に書いていますのでお読みいただければ幸いです。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月25日 08:49
窓からお猿さん

デトムワンの前は広いガレージでしたね
小学生の頃、下長者町通りから「梅雨の井」に向かって
石を投げて、Sさんの玄関のガラスを割って
怒られたことがありました
「梅雨の井」の周りも、八雲神社の境内地とお旅で
今とは全く正反対の景色を醸し出してましたね

それを思うと忸怩たる思いでいっぱいになってしまいます
どうすれば、こんなに変貌してしまうのか?
住民が世代と共に入れ替わって、街並みがある程度変化
するというのは、仕方ないと思ってます
しかし、これだけ無策な行政の施策で張りぼての街並みに
なってしまったのは、京都としてどうなのか?
と、思わずにはいられません

「観光都市」「京町家」なんて全国に宣伝してるんであれば
もう少し、己の街のグランドデザインに責任を持つべきと
わたしは思いますが・・・

窓からお猿さんの職場の方に「森ひろし」さんという
方がいらっしゃいます
わたしが過去「和歌山県桃山町誌」という町誌編纂の仕事で
森さんはライターとして、わたしはカメラマンとして
一緒にお仕事をさせていただき、いろいろと御教示いただきました
ふとしたことから、このようなご縁があったことを
嬉しく思います
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月25日 21:22
今日の朝日新聞朝刊に特集されていますが、いま日本の社会は高度成長期をピークとする社会変動が終末期を迎え、かつて家族や地縁社会に組み込まれていた個がバラバラになり、中には孤独な死を迎える人がいてもそれすら周りは気がつかないという状況になっています。
私は仕事で地方都市に行く機会がありますが、どこもシャッター商店街が続き、たまに人通りがある一画はマクドとかミスドとかユニクロとかどこにでもあるような店ばかり・・。
この状況が京都中心部では裏通り・路地の荒廃というかたちで現れているのだと思います。
八雲神社の跡地に立って荒れ放題の風景をみると、今からたかだか50年ほど前、私たち子どもの眼前にあった人々が肩をよせあっていた暮らしの風景が、夢か幻だったのではないかという感覚にとらわれます。
古いものが滅んでいくのは仕方ありませんが、問題はそれに代わる新しい有効な仕組みがまったく生成されていないことです。
「温故知新」といいますが、まず「温故」して古いもののいいところを評価し、新しいシステム形成の参考にすることぐらいから始めるしかないのでは、と思います。そんなに時間はないと思いますが・・。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月26日 09:00
窓からお猿さんがおっしゃるように
時代と共に廃れてなくなってしまうものがあり
それは、ある程度仕方のないものだと思います

しかし、いまは「わざと廃らせる」世の中の雰囲気が
醸成させている部分も否定できません

わたしは、萬亀楼の真向かいの長屋の一角に住んでました
長屋の真ん中には井戸があり共同の洗い場もありました
そんな長屋生活を過ごしてきたので、4軒あったのですが
一種の共同体のような生活を過ごしてました
毎年この時期になると、各家から「もち米」を持ちより
4軒の家でもちつきをして新年の準備をしたものです
大人たちが餅をつき、子供たちがもちを丸めて楽しむ・・・

いま、そんな原風景を京都市内で見ることは少ないと思います
高度成長期以降、物に恵まれ溢れてきましたが
それに反比例して「個」という概念を見事に履き違えてしまい
人との交流や基礎的な共同体(町内会)の構築すらも危うくなってます

ここで、地域も住む人々も「改めて見直してみる」という
作業が必要になってきたのではないでしょうか?
このままでは「日本は豊かに滅んでいく」という
平成3年ごろに、大学のゼミでつぶやいていたことが
現実になりつつあるのを危惧しております
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月26日 12:17
窓からお猿さん、売上に貢献できませんでした。
府立図書館で、昨日借りてきてしまいました。
年明け18日までじっくり借りれました。
図書館で、触りをちょっと読みましたが、深いですね。
予想だにしない事実と、人の営みが存在し、そしてその痕跡が今は風前の灯となっている事実。
あの空き地の見方が、変わってきたのを感じます。
近日中に、再々度、行ってみたいと思います。
やはり、何かにつけ、踏査することが肝心ですね。
そのものを自分の目で確かめることが、新たな事実の発見につながります。
春でもないのに、このソワソワ感はなんでしょうか。
窓からお猿さんを始め、京神たかちゃん本舗さん、愚華さん、京都仁丹樂會のメンバー、他多数の方々お陰です。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月27日 22:43
京神たかちゃん本舗さん、豊かなはずが心は貧しい、そんな感じですね。
昨日か一昨日かのNHKで、その同じテーマが論じられていました。
昔は、誰もが住む町内近所は、必ず誰かの目が行き届いていて、
少々のことでも安心でしたが、今の町は何が起こるかわからなくなってきていますね。
元々、子供とお年寄りが一緒にいることは、
お互いに足りないものを補える存在のはずだから、
本当はベストパートナーのはずなんですけどね。
なぜ、別々になってしまったんでしょうか。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月27日 22:47
ずんずんさん

もちろんわざわざ買っていただかなくてもいいですよ。
拙著の第3章(梅雨の井)は、梅雨の井近辺の現代史に関連づけた自分史なので「戦争のなかの京都」と同じスタンスです。
本書には書いていませんが、私が小学校6年生のとき父が病気で入院して母がその付き添いで留守がちになったとき、八雲神社の奥の路地にある私の友達の家が、「一人では寂しいだろう」としばらく私を預かってくれました。
私と同い年の男の子とその姉・妹の3人の子どもとご両親の計5人家族が住んでおられた2部屋だけの平屋に、よその子である私を寝泊まりさせて下さったのです。
こういう助け合いの網の目が、当時このあたりには張られていたのです。そのように濃い近隣関係を実際に経験しただけに、この地の今の荒廃ぶりは寂しいかぎりです。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月27日 23:06
窓からお猿さん、ごめんなさい。
軽い気持ちで書いてしまって、失礼な言い方になってしまいました。
後から読み返して、書き直そうとしていたところ、コメントをいただいてしまいました。
この正月休みに、じっくり読ませていただきます。

むかしは、どの家も小さいながらも商売をしていて、お店がありました。
子供は、親が働く姿を見て育ちました。
私の育った町内も、商店街ではなかったけれど、
魚屋さんにパン屋さん、お菓子屋さんに当てもん屋さん、
荒もの屋さんに和菓子屋さんにクリーニング屋さん、それからタバコ屋さん。
散髪屋さんに牛乳屋さん。それから、油屋さんもあったです。
手回しの給油機で、ガラスの筒にガソリンが上がってきて、
ハンドルを回すのを止めると、今度はガソリンが給油できる仕組みになっていました。
その店でのガソリン給油は、確か昭和40年代初頭に止められました様に記憶していますが、
今から考えたら、おそらく消防法の関係だったんでしょうね。
店といっても、普通の家でしたからね。
そんな、お店が並んでいたんです。
そのお店は、みんなおばちゃんやおっちゃんが店に出たはったから、
表を通る子供らは見守られていました。
地面には、必ず蝋石でらくがきが書かれていたり、ケンパ遊びの跡が残っていたり。

その町内に、今行ってみたら、すべての店はなくなり、人が住んでいる活気は消えています。
そうして、表を眺めるやさしい眼は無くなってしまいました。
あの居心地の良かった空気が懐かしいです。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月27日 23:51
ずんずんさん

失礼なんてとんでもないです。本が出て10年ほども経っていますので、いま読んでいただけるというのは著者として嬉しいことです。
聚楽第の復元研究はその後大きく進展していますし、第一章(復元研究史のまとめ)は今では古くなってしまいました。第二章(聚楽町)は京都の元学区(この場合聚楽学区)研究の事例として参照していただけると思います。聚楽学区の場合、教育後援団体である「聚楽教育会」が昭和12年に財団法人化され、その後「聚楽会館」という不動産を所有し、この建物は中立売葭屋町角に今もあります。
「元学区」は京都市内の地縁団体として大きな意味を持ち、なお健在であると言いたいところですが、第3章(梅雨の井)で描いた東堀町のように、基礎単位である「町内」が往時の活力をほぼなくしてしまっているので、これからどうなるのか心配です。
元学区のほとんどは、その結集軸であった小学校が廃校になっていますが、まだ力がある元学区では、再利用されたりしていても(明倫校=芸術センター、龍池校=マンガミュージアムなど)秋には校庭で区民運動会がまだ継続されています。しかし区民運動会ができなくなっている元学区もぼちぼち出てきているようです。
京都の元学区の活力が衰えてしまったとき、「安全網」は今よりもっとボロボロになってしまいそうです。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月28日 10:51
聚楽第のことは、ほんとうに上っ面のことしか知らないので、
この機会に、興味の幅を広げたいと思います。
復元研究史のところは、この10年で古くなったというお話ですが、
やはり、埋蔵文化財の観点から、新たな発見や実証が確認されたということなんでしょうか。
わたしは、剣鉾祭りの研究を主にしているのですが、
その説や研究が、たとえ古くなったとしても、
それは大事な思考の経緯を辿ることのできる資料となり、
決して無用のものではないと思っています。
知っているのと知らないのとでは、まったく違う答えに行き着くこともありますし、
少し遠回りしてでも、読んでおきたいと思います。
(いつもこんな調子で、興味を広げすぎて、何にも頭に入ってないことが多々ありますが・・・)

「元学区」のことは、仰るとおりですね。
地縁団体であり、自治組織の集合体として健在であるようで、
実のところは、組織という仕組みはあっても、構成する人の力が弱くなっています。
もう10年前に引越ししてしまいましたが、わたしのところは、旧銅駝学区で、
区民運動会も行われていますし、夏の盆踊り大会もやってると思います。
京都市内の統廃合の第一号校となって、当時は大反対運動の嵐が吹き荒れました。
しかし、銅駝中学校は廃校となり、高校になってしまいましたが、
あの頃の地域のマンパワーは凄かったんだと、今にして思い出しています。
やはり、学区は、地域を愛する心を養う土壌となるものだと思いますね。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月28日 16:00
そうですね。京都市内の埋蔵文化財発掘調査は、元々平安京の遺構を調べるのがメインで、平安時代の地層が出るまではそんなに丁寧に調べながら掘ってはいませんでした。
ところが1991年に大宮中立売下がるの西陣職安(ハローワーク)の建て替え工事に先立つ発掘調査で、近世の地層から巨大な堀跡がみつかったのです。これは聚楽第の東堀跡に間違いなく、それまでに断片的に知られていた聚楽第関係の考古学的知見がいっきに意味づけされたのです。これを契機に聚楽第関連の遺構検出を意識した発掘も行われるようになり、堀跡関係の情報が急速に増えました。
しかし出てくるのは堀の遺構と金箔瓦ぐらいのもので、建物にかかわる遺構はほとんど出ていません。建物関係はよほど徹底的に破壊されたようで、かつて聚楽第からの移築といわれていた西本願寺飛雲閣とかも、今ではそうではないという見方になっています。

京都の元学区はちょっと特別です。
1869(明治2)年に全国に先駆けて64校の番組小学校が作られ、1941年に国民学校令が出るまで、学区は小学校の設置主体だったのですね。京都市教委も統廃合政策を進める際、元学区のコミュニティセンターとしての元小学校という機能は残すから通学区の広域化に賛成してくれというスタンスでした。ところが元学区の力が衰退してくると、やたらに広い通学区だけが残るわけです。先行きが本当に心配になります。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月28日 19:58
ずんずんさんは、銅駝学区のご出身でしたか・・・
わたしが、小学校の頃に統廃合の話しがありましたね
御所の少年グランドでわたしが小学校の頃
銅駝中学に行ってるひとたちと野球の試合を
させてもらった記憶があります

あの頃は、あの少年グランドに行ったら周囲の小学校や
中学校の子供が遊んでましたから、ちょっとした社交場
のような雰囲気でした
そこで友達になった他校のひとが多かったですね

わたしの行っていた「元待賢小学校」は平成9年に
となりの出水小学校と統廃合されました
最近は、つとに小学校区の統廃合が進み学区も大きくなり
「元学区」というものの存在が薄れてしまうようになりました
元待賢小学校も校舎は残っていて、区民運動会などがあり
またフランス学院がお隣の元聚楽小学校から移転してきて
校舎内に設置されたりして活用はされてますが・・・

仕事柄、小学校に行って撮影することが多いのですが
やはり「元学区」というものの影響力があるか、なしか
は死活問題のように感じます
PTAの活動にも直結してますから・・・

地元の元待賢小学校の校舎に関しては、存続させる期間が
過ぎてしまってるのですが、フランス学院があるということと
精神障害者のケアする機関が入ってたりということもあって
いますぐ取り壊すということではありませんが
いつ取り壊されても、すぐに「自治会館」が建設出来るように
と、以前住んでた町内では、町費の一部をプールして
「自治会館」建設のときは、そのプールしているお金を
拠出しようとしている自主的な動きもある町内会もあります

そういうことも考えると、行政の考え方は場当たり的で
「街のグランドデザイン」をどう描くか?
という思想が欠落していると思えてならないんです

「梅雨の井」の問題にしても、議会で一時期取り上げられた
にも関わらず、自然鎮火してしまってることにも
危機感を覚えないといけないと思います
「観光資源にならないものは放置する」という姿勢を
「梅雨の井」の騒動の時に、行政の対応を見て実感したので
行政の「観光施策」には、諸手を上げて賛成出来ないというのが
わたしの考え方です

ずんずんさん、ぜひ「梅雨の井」にお越しください
そして、現実をご覧いただければと思います

長々と書いて申し訳ありません
Posted by 京神たかちゃん本舗 at 2010年12月28日 23:32
ずんずんさん、京神たかちゃん本舗さんの母校である旧銅駝小学校、旧待賢小学校ともに校舎は昭和10年代前半に建てられた名建築ですね。
銅駝校玄関の大理石やタイルを多用した豪華な設えなどは、建築当時学区の人たちの多額の寄付によって賄われたと聞いています。
待賢小学校の校舎も、丸太町通に面した北東角に丸みを持たせて柔らかい印象を与える名建築ですね。また建築当時からスチーム暖房を備えるなど設備も整っていたようです。
この頃の学校建築は、昭和9年の室戸台風で京都市内でも数校の木造校舎が倒壊し、児童・教員に多数の犠牲者が出た(円山公園から知恩院に向かう道にその慰霊モニュメントがあります)苦い教訓に学び、鉄筋化が図られると同時に先に述べたような学区の心意気を示す豪華な仕様が施されたのです。
そういう意味でこれらの校舎は、学区全盛期の記念碑的な意味も持っていると思います。
旧銅駝校の場合は美術工芸高校になっていていわば現役ですが、待賢校の場合は微妙ですね。再生利用の用途が決まっていない他の旧小学校(私の母校・聚楽もそうです)も含め、耐用年数を過ぎている校舎をどうするのかという話がそろそろ出てくるかもしれません。
過疎地などの場合、統合されて廃校になった跡地が更地になって草が生い茂り、地域とともに荒廃しているところがたくさんあります。
廃校跡地の在り方は、地域コミュニティーの状態と深くかかわっていると思います。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月29日 09:39
窓からお猿さん、いよいよ年の瀬も押し詰まってきましたね。
今年は、ほんとうにお世話になりました。

さて、聚楽第が短期間に破却されたのは聞いていましたが、
なんと8年ほどで、それも徹底的に跡形もなく取り潰されていたというのには驚きました。
やはり秀吉は、秀次の痕跡を一掃してしまいたかったのでしょうか。
憎悪、遺恨、後悔、逃避、どんな心情が働いたのか。
当時は、城の部材など、とことんリサイクルされていましたが、破却の理由が秀次の痕跡の払拭にあったなら、部材としての再利用はあったにせよ、建造物をそのまま移築利用するのは、どうであったのか疑問にも思います。
しかし、現代人の考え方なら、財力と権力を持つ者なれば、リサイクルなど小さいことを考えずに、イメージを一掃させる為に再利用はしないのでは、と考えてしまいますが、当時の実際は、もっと現実的な考え方を持っていて、物資・資材の節約の方が圧倒的に重要であったとするならば、心情的な動機は二の次になってくる、ということも考えの視野にいてとかないといけないかとも思うのですね。
そういった、今昔での時代による人の意識の違いは、事件の理由と結果を分析する際に、大きく異なる答えを導き出すことになりますから、イメージを消してしまいたいという意識の強さか、リサイクルの重要度か、どんなバランス感覚であったのでしょうか、興味の湧くところです。

それから、元小学校の話ですが、閉校後に処分が止まったままになっているところの中には、校地の権利者が、今尚、複数存在していることに由るという話を聞いたことがあります。
番組小学校の設立経緯と、その後の拡張が、地元学区民からの譲渡や貸与によるものであったということに、大きく関係しているようですね。
それに、大理石をふんだんに使った正面玄関は、今も思い出します。階段の踊場の手摺りなどにも大理石が使われていて、真夏の暑い日に、大理石に引っ付くと冷たくて気持ちよかったです。あの当時の小学校は、どちらでも正面玄関など、みんな大理石が使われて立派でしたね。
小祠をもとめて、油小路通蛸薬師下ル・山田町にお訪ねしてお話を伺った際、本能校のお話が出たのを思い出しました。当校は、大正10年に火災により校舎の大半を焼失してしまったのですが、区民をあげて寄付金が寄せられ、大正12年に京都で最初の鉄筋コンクリー ト造の校舎が竣工なったそうです。元開智校(現・京都市学校歴史博物館)はありますが、今も残っている校舎を、今後、近代学校建築のモニュメントとして、保全・活用など様々な課題がありますね。
つい二週間ほど前に、どちらか他府県市町村の成功事例で、老人介護施設と児童保育施設が併設していて、子供とお年寄りがいっしょに過ごしているのが紹介されていました。前にも書きましたが、子供とお年寄りは、お互いに足りないものを補える存在ですし、お互いに元気を与え合えるベストパートナーなんですよね。お金のない京都市ですが、そこをうまく取り入れた拠点作りができないのでしょうかね。

また、来年もよろしくお願いいたします。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月31日 05:04
京神たかちゃん本舗さん、今年はお世話になりました。


さて・・・
はい、銅駝学区でした。
京神たかちゃん本舗さんは、野球少年だったんですね。
私も、御所は小学校時代からの遊び場でした。虫取り、木登り、銀杏拾い、ゴム飛行機飛ばし、魚・ザリガニ取り、その他様々。当時は、水路の水を疏水から引いていたらしく水量も多くて、オイカワ・ゴリ・ニホンザリガニなど魚が豊富でした。
今では信じられないけれど、昔は堺町御門を入ったところの広場で、Uコン(ワイヤーの付いたエンジン動力の操縦飛行機)を飛ばしてるヤツがいました。今なら即刻、厳重注意か、悪くすると捕まるでしょうね。水路の対岸に乗り移っても、あんな警報ベルも鳴らんかったし、おっとりしてました。

ところで、話しは変わりますが、待賢学区のお町内の中に、町費の一部をプールして「自治会館」建設に備えておられるところがあるというお話、この前向きな姿は素晴らしいですね。涙ぐましい努力には、頭が下がります。
そういったことを聞くと、銅駝校はまだ幸せだったのかもしれませんね。今も学校として生き続けているわけですから。
統廃合後、もともと池庭であった場所に、銅駝会館が建設され、銅駝校の史料や記念物が保管されました。
そうそう、体育館の舞台中央上部に「銅駝観」と刻まれた扁額が掛かっていました。入学式の時に、校長先生がその額について話されたのを思い出しました。その額が、もともと校地にあった建物に掛かっていたものであるということで、その後、銅駝校が譲り受けて、”銅駝観”を、銅駝校生の心構えを表す言葉として、引き継がれた、というお話であったと記憶しています。その扁額の保管されているのだと思いますが、久々に見てみたくなりました。

「梅雨の井」は近々覗きたいと思います。
以前に行った時は、野良猫の遊び場になっていました。

来年も、コメントよろしくお願いいたします。
Posted by ずんずんずんずん at 2010年12月31日 06:23
ずんずんさん

たしかに、旧番組小学校の校舎のなかには文化財級のものがあると思います。近代建築のモニュメントであることはもちろん、学区の人たちが「我が学校」として物心両面で支えた歴史遺産という側面もあると思います。前にも記したと思いますが1941年の国民学校令まで、旧番組小学校の学区は「学区税」を徴収する学校の設置主体でした。これは全国でも最長です。
いま単独校として残っている旧番組小学校は1桁になってしまいましたが、その一つ、清水小学校の校舎もすばらしいものです。これも確か昭和11、2年の建築だったと思います。
東山を背にして西側に向かって開口するコの字型の鉄筋3階建て校舎配置ですが、細部にまでこだわった意匠が随所にみられ、屋上からの景観も絶景です。敗戦後進駐軍の米兵がホテルと間違ったという逸話もあります。見学させてもらったとき、こんな学校で学べる子どもは幸せだなと本当にそう思いました。
しかし残念ながら、この小学校も来年3月広域統合で「開晴小中学校」に統合され、廃校となります。その後この校舎がどうなっていくのか関心を持っています。

ずんずんさんたちが仁丹町名板に愛着を持っておられるのは、単なる懐古趣味ではなく、人々の間に何となく「一体感」があった時代の京都への「郷愁」のようなものもあるのではと推察します。
戦争中の金属供出の嵐にも、琺瑯が引かれていたおかげでしぶとく生き残り、京都人の暮らしとともにあったわけです。
いまマスコミなどでも「無縁社会」とかが云々され、人々の繋がりの大切さが強調されるようになってきました。
競争よりも共生へ、新しい年はその流れをもっと確かなものにしていかなければ、と思っています。
ということで、新年もどうぞよろしくお願いします。
Posted by 窓からお猿 at 2010年12月31日 09:48
窓からお猿さん
京神たかちゃん本舗さん

旧年中は、大変お世話になりました。
たくさんのコメントをいただき、勉強させていただきました。
本年もよろしくお願いいたします。
Posted by ずんずんずんずん at 2011年01月03日 18:29
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